第222回 淀城跡

淀城あたりはゆっくり行ってみたいところやった。
まず納所(のうそ)という名がおもしろい。

 

名の由来は淀川の川舟で運ばれた物資を納めといた所から付けられたそうやけど、
古うは納所の船人のご先祖はんが神功皇后の舟子(ふなこ)やったと言われている。

神功皇后と共に三韓から帰ってきやはったとき、御旗(おはた)をこの村に納めたんやて。

 

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時代は移って、秀吉はんが伏見城を作らはった折、水陸両用の港湾宿場町として賑わった。

 

淀城ゆうと秀吉の側室で秀吉の子(鶴松)を生んだ淀君のお城と思うけど、現在の淀城は

江戸時代の始めに徳川家によって築かれた城です。

 

淀君がいやはった淀城は淀古城と呼ばれて、納所妙教寺あたりと言われてる。

 

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茶々は完成した淀城で鶴松を生んで以来、淀殿と呼ばれました。

 

納所の南に唐人雁木の址の石標が立っています。
唐人ゆうのんは朝鮮通信使のことで、一行が上陸した船着場の雁行形の階段を
雁木と言うたんです。

 

瀬戸内海を通り淀川河口から淀へ向かうた通信使側の記録に、秀吉の妾の家が淀殿の城である

と書かれているのやて。

 

 

元禄時代、大阪堂島の米市で成功しやはった豪商淀屋辰五郎の出身地はこの淀です。

夏屋敷とゆうて、天井にガラス板を張って水を入れ金魚を泳がしてはったとか。

キンギョメイワクとちゃうか。

 

京阪電車のターミナル、淀屋橋は辰五郎が堂島に集まる仲買商人のために架けはった橋を

駅名にしてはる。

 

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又、時代は下って鳥羽伏見の戦で敗走してきた幕府軍の兵士がやっと淀までたどり着いて、

淀城に入ろうとすると、城門は固く閉ざされてました。

 

淀城城主は幕府の老中も勤めてはった稲葉はん。
なんで幕府軍を拒否しやはったんやろ?

 

物知りのオバァちゃんがいうことには、

「藤の森に錦の御旗が上ったさかいになぁ、天皇さんの逆賊になるのんはあかんと思わはったんやろ。
 もうひとつはな、尾張のお殿さん慶勝はんから前もって新政府にさかろうたらあかんと

 要請があったときいてまっせ。
 そやけど、しみじみ思いかえすと、ここのご城主の稲葉はんのご先祖は、

 関ヶ原の戦で東軍に寝返って東軍勝利につながった小早川はんの御家老でっしゃろ。
 歴史の移る折に分かれ路にたたされる運命の家やったんやなあ」

ほんまやろか。オバァちゃんは誰にそんな話きいたんやろ?

 

「それにしても淀は水車がよろしい」と又口を出さはる。

 

   淀の川瀬の水車 誰を待つやらくるくると

 

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「狂言の靭猿(うつぼざる)に出てきますがな。
 この水車、昔は直径が八間(約15m)もあってな、回りをようするために1日1升もの油が車の

 芯木にかけられたんやて。
 水車は上流から流れる土砂のため淀川の川床が高うなって、幕末には6.5mほどの小さいのんに

 なったそうな。

 淀川から運ばれて堆積する土砂は天然の肥料でっせ。
 淀川大根が美味しいわけですがな。おでん・ふろふきに美味しおっせ。」

 

悲しい歴史の淀やけど、美味しいもんが残っていくのは嬉しいことです。

 

淀城に行ったとき、河津桜が満開でした。
写生をしてはる方が何人もいやはって、平和をありがたいと思うた。

 

 

鳥羽伏見で亡くならはった人たちの慰霊碑にはお饅頭が供えてありました。
いつの世もほっと一息肩をおろせるのんは和菓子やおへんやろか。

 

昔から愛された和菓子の中村軒でくつろいでおくれやす。
4月中旬から神功皇后の人形も飾って皆でお待ちしております。

 

ほなこの月もめでたし、めでたし。


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