第230回 周山城跡

美山で農家民宿をしてる友達から周山に明智光秀が築城しやはったお城があると聞いてた。

高さ約230メートルの山上の周山城です。

織豊期の築城技術の特徴を残してて、文化財としての価値も高いそうな。

 

P1012882.jpg

 

「行きたい行きたい、連れてんか。うちのダンナも店のお姉さんもいくし」
「知り合いにお城大好き人間がいるさかい頼んだげるわ」

 

ということで会うたこともない「その人」と道の駅ウッデイ京北で待ち合わせすることになりました。

地元のオジさん又はおじいさんが待ったはると思いきや、登山服のさわやかなお兄さんが現れてびっくり。

 

「あつかましいお願いをしてすんません」
「今日は仕事も休みですし」と笑顔良しの好青年です。

 

縁もゆかりもないオバハンをせっかくの休みやのに一日つぶしてもろて美山の人ってなんてエエ人なんやろ。

 

 

彼いわく「光秀さんはこのあたりでは評判が悪いですねん」

地元の宇津氏を滅ぼして築城したときに、地元の人達もお城造りにかり出さはったんにちがいおへん、

など話しながら登山口までいくと、立札に
「1590年代信長から丹波平定を命じられた光秀が築城した城で山頂まで60分」と書いたある。

 

天正9年8月に光秀が津田宗及と十五夜の月見の茶会をこの城で楽しんだ、ということや。
本能寺の変が天正10年6月やさかい、この頃から信長を討つ計画があったんやろか?


このお茶会のお菓子は何やろ?

「月見だんごやろ」とダンナは言う。


この頃には砂糖が一般には手に入らへんさかい「あん」なしのおだんごやったかもしれん。

 

それにしても急な坂が続く。しかも道が石だらけ。倒木もあるしこれを60分も歩くのんかいな。
京都と若狭を結ぶ周山街道の押さえとして作られたそうやけど、昔の人はほんまに偉いわ。

 

   天高し登れど登れど坂続く   マサコ

 

天南星(てんなんしょう)が咲いてたり、松風草が風に揺れてたりしてたけど、
彼に遅れたらあかんとひたすら登ると、お城の石垣がやっと見えてきました。

 

 

立派な石垣が広い範囲に残ってて、井戸の跡もある。

 

しばらく休憩して光秀の気持ちになってみる。

 

世の中は是か否か?
自分も年や、過酷な信長に仕えるのも疲れ果ててる。
自分が天下をにぎれば今のような過酷なことはせえへんのに、と思わはったんかどうか。

 

P1012919.jpg

 

私はもう天下もいらん。お腹ペコペコ、はよ山をおりてお昼が食べたい。

 

やっとこさ山を下りて朝待ち合わせたウッデイ京北にたどり着く。

地元おすすめのうどんを頼むと納豆餅が入ってた。
「これはあかん」とお兄さんは声をあげはる。
納豆が嫌いなわけではなく、職場でどぶろく造りをしてて、酒造りには納豆菌が入ることが厳禁やそうな。
納豆菌が麹の邪魔をするらしい。

 

彼は都会育ちやけど、山の生活が好きで美山で就職しやはったとか。

光秀はんも周山城でお茶や連歌をしておいしいどぶろくを酌み交わして過ごしたかったんにちがいおへん。

 

 

帰りに友達のとこへ寄ると農村留学の小学生が来てて「こんにちは」と出てくる。

いろりを囲んで久し振りに話が弾む。

 

昔とちごて今はある程度好きな仕事につくことはできる。
この友人も京都で商売をしてはったけど両親が亡くならはってから長年の夢であった山での生活を始めはった。

 

うちのダンナの夢はおいしいおまんじゅうを次の世代につなぐのが使命という。
これもけっこうな事やと思てます。

 

今年はいろんなお城やお城跡をみて、次の世につなぐ大変さを感じた年です。

何とかこの年も無事に過ごせました。


来る年もどうぞ中村軒をよろしくお願い致します。

 

ほなこの年もめでたし、めでたし。


第229回 物集女城跡

中村軒のある桂から車で15分ほど行くと向日市があります。
乙訓(おとくに)と呼ばれ昔の資料では弟国と書かれてます。

 

四世紀頃、乙訓郡では巨大古墳が代々にわたって作られ、30ほどの古墳が見つかってます。

近畿地方でも最古の弥生工器が出土してるのやて。

 

P1012859.jpg

 

物集女(もずめ)車塚古墳は特に有名です。物集女ゆう名が珍しい。

この古墳は石室の入口が完全に閉じたままやったさかい、盗掘を免れて貴重な資料を得ることができたそうな。

 

「どんな人が古墳を作らはったんやろ?」

おばあちゃんがゆうことには、古墳を作るほどたんとの人を働かせることのできる有力な支配者が

この乙訓にいやはったんや。

 

エライ先生のゆうたはることにはな、物集女ゆう名前には、世界遺産となった堺百舌鳥古墳群で

古墳を作ったはった土師氏の一部がこっちへ移ってきやはったとゆうことえ。

 

P1012850.jpg

 

ほんでこのあたりは古墳がたんとあるし、塚原とか御陵(ごりょう)ゆう地名も残ってるし、物集女氏も

代々支配者としてこの地にいやはったんや。

 

おばあちゃんは又言わはる。

 

土師氏のご先祖はんは野見宿禰(のみのすくね)で、当麻蹴速(とうまのけはや)ゆうすもうが強い人と

勝負するために出雲から来やはって、見事勝たはったんや。
そんで垂仁(すいにん)天皇さんにお仕えすることになったそうな。

 

皇后さんが亡くならはったとき、殉死ゆうて位の高い方が亡くならはったら主の死を悼んで命を絶ち

一緒にお墓に入れられてたけど、生きたまま家来を埋めたりすることもあったとゆうことですな。

 

「これはあかんのとちゃいますか。

土で作った人形を亡くなった方と一緒にお墓に入れたらどないでっしゃろ」
と野見宿禰が埴輪を作ることを申し出はったら、天皇さんはたいそう喜ばれてそれから葬儀のこと、

お墓を作ることは全て野見宿禰が代々任されることとなったそうな。

 

P1012851.jpg

 

私が高校生の時「物集女」から来てた子がいて、

「変わった名前やなあ。物を集める女の人って、何かのコレクターが住んだはったんかなあ」と言うと、

 

「ちゃうちゃう、ここはやんごとない由緒ある名前やねん。

 大阪の百舌古墳を作らはった土師氏がこの地へ移ってきやはったんは知ってるやろ。

 土師氏が大きな古墳を作らんでもエエ時代になると土師氏は3つほどの分家に分かれるのやて。

 そのうち大阪の菅原に住んだはった人は「菅原」ゆう名に変えはった。

 これは菅原道真、つまり天神さんのご先祖え。

 土師氏の中でもともとの地名物集女を名のらはったんが、5世紀頃この辺りに勢力をもたはった物集女氏。

 その子孫が物集女城主物集女忠重と続いてきてるのや」

 

「わかったわかった。コレクターとちごたんや」

 

このあたりの戦国時代の城跡でなんとか土塁と外郭が残っているのは物集女城です。

室町から戦国にかけての有力武士である物集女氏のお城です。

物集女忠重の時代に織田信長に従わへんかったさかい、勝龍寺城で討ち取られてしもて、そのとき

物集女城も運命を共にしました。残されたお堀の水は今も寂しそうで悲しそうな色をしている。

 

 

物集女城は滅んでも物集女街道という名が残り、山陰道と西国街道をつなぐ街道です。

物集女街道には古い町家造りの屋敷、神社などがあります。


たけのこも有名やし、お野菜も柿も美味しい。古うから中村軒のお得意さんも多い。

 

この古いお家では11月には亥の子餅を祝わはる。
11月の亥の日にストーブを出したり炬燵(こたつ)に火を入れたりします。
このときみんなで亥の子餅を食べると火事にあわへんとご注文いただく。

 

 

中村軒の亥の子餅はきびで染めた求肥にゴマとクルミを入れてこしあんを包んである。
子だくさんの猪にあやかって子孫繁栄をも願っていただく。

 

いつまでもこんな風なお付き合いが出来ますようにと向日明神さんに亥の子餅をお供えして

お願いいたします。明神さんもよろこんでくださるに違いおへん。

 

ほなこの月もめでたし、めでたし。


第227回 滋賀のお城

NHK大河ドラマの第一作目が井伊直弼の生涯を描いた「花の生涯」やった。


NHKはんはえらい気ィ入れたはって、このときの俳優がすごい!

 

 井伊直弼 尾上松録

 村山たか 淡島千景
 長野主膳 佐田啓二

 

それ以来私は大河ドラマの井伊さん、そして国宝彦根城のファンとなってます。

 

 

明治はじめ廃城令が出されて彦根城も解体されるはずやったけど、明治天皇の北陸巡幸に同行

してはった大隈重信はんが「あんまりにもったいないのんとちゃいまっか」と保存を願い出やはって
助かったということどす。

 

 

国宝の天守は関ヶ原合戦の前哨戦で耐え抜いた大津城から移築された。

急な階段を登って天守へあがると琵琶湖が見える。
井伊さんもこれを眺めてはったんやと思うと感慨深い。

 

天守からは佐和山も見える。この山に佐和山城があったんや。

 

 

「三成に過ぎたるものの二つあり 島の左近と佐和山の城」と言われた名城やった。

 

左近が三成の家臣になったときの話は今も伝えられてます。


水口四万石の城主やった三成はすぐれた島左近をどうしても家臣にしたかった。

「水口四万石の半分、二万石を与えるゆえ家臣になってくれ、と頼まはると、私を金で動く男と見たんか、

 と怒らはったんえ。そしたら三成はんが『自分より安い男を雇うのはイヤだ!』
 その一言で左近はんはコロリと参ってご家来にならはったんや」とおばあちゃんは見てきたように言わはる。
これきっと大河ドラマの見すぎとちゃうか。

 

 

三成が関が原の戦で敗れ、家康は佐和山城を井伊直政に与えはった。
直政は関ヶ原合戦の折の鉄砲傷がもとで死なはった後、井伊さんの息子はんは、城をこの佐和山から

彦根に移さはった。これが今の彦根城です。


お城の石垣には佐和山城本丸の石垣が使われています。

「井伊さんは代々佐和山と三成はんを大事にしやはったんえ。
 豊臣のために戦ったその心根を尊敬してはったんに違いおへん。」

と又おばあちゃんが口を出す。

 

彦根城からほど近いところに龍潭寺とゆう井伊さんの菩提寺があります。
このお寺から佐和山城跡へ登る山道があるとのことやけど、時間がのうて又今度とあきらめました。

近くに佐和山城を模した石造りのミニチュアのお城が建立されています。なかなかエエお城でっせ。

 

龍潭寺にはおまいりします。

ここは芭蕉はんのお弟子さんの森川許六(きょろく)が描かはった襖絵がある。
許六は彦根藩士で六芸に通じてるさかい、芭蕉が許六と付けはった。

 

許六の俳句は

 

 瓜紅の指でつまむや嘉祥菓子

 餅ほめて這入れば茶屋のつつじ哉

 

 餅つきや下戸二代のゆづり臼(うす)

 

などお餅が好きやったんにちがいおへん。
滋賀はエエお米がとれるさかいになぁ。

中村軒の餅米も滋賀甲賀の餅米を使てます。

 


いよいよ秋、新米も小豆も入って美味しい季節です。

 

 近江もよし桂も又良し秋の風 マサコ

 

ぜひ桂も中村軒でおいしいお餅・おまんじゅうを召し上がっとうくりやす。

ほなこの月もめでたし、めでたし。


第226回 開田城跡

お城とゆうたらお大名がいて、その下に家来がいやはるというイメージやけど、長岡天神の近くの

開田城は、戦国時代西岡衆として活躍しやはった国衆の中小路さんが建てはったお城です。

 

国衆というのはわかりにくいけど、前の大河ドラマであった真田昌幸が国衆で、こんなセリフも

ありました。「信濃は我ら国衆で治める。大名はいらん」

 

真田はんみたいな国衆を一言で言うと、戦国時代の地侍で、地元の殿さんのこと。

村長さんともちょっとイメージ違うのんですが、大名より数が多かったんにちがいおへん。

 

開田城を建てはった中小路さんも国衆の殿さんで、

「大名はいらん、国衆によって西岡を自治しまひょ」としやはった。

 

 

中小路さんを中心に乙訓西岡地域の土豪や地侍は自活運営を目指して国一揆をむすんだことで有名です。
このお城は村の人達のお城やったんや。

 

昭和53年〜56年と平成8年に発掘調査があって、石組みの井戸・かまど・たくさんの素焼のお皿が

出土しました。調査が終わった後、マンションが建ったけど、このマンションのロビーに開田城
模型が置かれています。

 

 

この西山あたりは桂からも近いさかいお得意さんがたくさんあります。
こんなエネルギッシュな人達のご子孫やと思うとなんやら嬉しい。

しみじみと昔をしのびました。

 

   国衆の城の石垣 蝉しぐれ    マサコ

 

お城跡をあとにして、このお城を建てはった城主中小路さんのご子孫のお宅へ伺います。
西国街道に沿ったところにあって、国の登録有形文化財に指定された家で、長屋門など

風格のあるお家です。

 

 

いろんなイベントやお稽古にお屋敷を貸してはって、やっぱり殿さんや、人のためになることしてはる。

 

喫茶もあって、私はお昼ご飯にとびっきりのオムライスをいただく。コーヒーもおいしい。

世が世なれば殿さんやのに、殿みずから運んでくれはるなんて、アリガタイアリガタイ。

 

殿は竹久夢二がお好きとかで喫茶室には夢二がいっぱい飾られて、これもみどころの一つでっせ。

 

 

中小路家を出て西国街道を行くと五辻に出て、ここに石塔寺というお寺があります。

昔このあたりは島坂とゆうたらしい。

 

 16日(とおかあまりむいか)
 今日の夜さつかた 京へ上るついでにみれば
 山崎の小櫃の絵も 曲(まがり)の大鈎(おおぢ)の像もかはらざりけり
 かくて京へいくぬ
 島坂にて人あるじしたり

 

934年4年間の土佐国司の任を終え、京へ帰り着くまでを綴った土佐日記の一節です。
紀貫之はこの西国街道を通って京へ入ったに違いありまへん。

 

 

まがりのおおぢのかた(像)とあるのんは、「まがり」と書いてある看板と解釈されることが

多いのですが、ちがう説もあります。

 

当時もてはやされてた唐菓子のひとつ「まがり」が売られてたんとちゃうか、

とエライ先生はゆうたはる。まがりは藤葛(ふじかづら)のような形、と昔の本に出てて、

生地をつるのように曲げて作ったんちゃうかしらん。

 

貫之もまがりの看板を見て京がいよいよ近づいたと思わはったんやろ。


どういうわけか時代が下ると唐菓子は作られんようになてしもた。

 

この時代のおやつとして、はっきり文書に残ってるのんは「ところてん」です。
どうやって食べたんかは記録がないけど、江戸時代になると関東では酢醤油、
関西では黒蜜で食べるのが定着しました。

 

私が子供の頃、ところてんは一本箸で食べてたけどなんでやったんやろ。

 

お城から話がえらいそれてしもたけど、中村軒のところてんもとびきり美味しい!

お城からちょっと桂まで足をのばして、ぜひおこしやしとくりやす。


皆々お待ちしております。

 

ほなこの月もめでたし、めでたし。


第225回 亀山城

亀岡市にある亀山城は丹波統治の拠点として明智光秀によって築城されました。

 

P1012147.jpg

 

秀吉への援軍として備中に向かうはずの光秀が「敵は本能寺にあり」と

本能寺に泊まってはった信長を討つため出発したのはこの亀山城です。

 

この数日前、光秀は中国陣への参戦での戦勝祈願と連歌の会を名目に愛宕山に登らはる。

山上の連歌会で光秀の発句は

 

   ときはいま 天(あめ)か下(した)知る 五月かな

 

時は土岐(光秀は名門土岐一族の出生)を指しているのではないか、つまり土岐氏が天下を

とる五月、と解釈されあまりにも有名やけど、これにもいろんな説があります。

 

ときハ今あめがした知る五月哉、となると、土岐氏は今、雨に叩かれてるような危機に

ある五月である、という人もいやはる。

 

なんで光秀が信長を討ったんか今もわからんそうな。

黒幕説、野望説、怨念説、前途不安説???

 

ようわからんけど私は光秀はんは疲れたはったんやと思う。
この時50才すぎたはったんやろ、信長会社では次々と手柄をたてんならんし、
「もう年でっせ、ああしんど。これ以上信長はんについていけまへん」と思わはったんちゃうか。

 

司馬遼太郎は亀山城のことを「闇夜に打ち上げられた大輪の花火のように華麗ではかない」と

『街道をゆく』で書いたはる。

 

亀岡市郊外の猪倉に光秀が信仰していた谷性寺(こくしょうじ)というお寺があります。
ここに光秀の首塚があり、光秀の家紋である桔梗の花がいっぱい咲くことで桔梗寺ともいわれてます。

 

P1012132.jpg

 

歴史に「もし」はないと言われてますけど、本能寺の変もなかったら、こんな静かなお寺で

桔梗に囲まれ連歌の会を催しながら過ごしたかったんにちがいおへん。
もちろん美味しいお菓子も用意して(この時代中村軒のお饅頭もありまへんけど)

 

P1012126.jpg

 

「たんとの家来の生活を考えると『私、仕事やめまっさ』とは言えへん立場どすがな」
とオバアちゃんはしみじみ言わはる。ごもっとも。

 

亀山城は現在大本教の所有となり堀や石垣が城跡として残っています。
お城の前の南郷公園には光秀の銅像が建ち、令和元年5月10日除幕式が行われました。

光秀はええ政治をしやはって、人々に慕われたはったに違いおへん。

 

P1012135.jpg


光秀が祈願しやはった愛宕山は7月31日千日詣があります。
この日おまいりすると千日まいったご利益があるそうな。

結構しんどいけんど、私も中村軒のくず桜をもって光秀はんをしのんでおまいりしようかなと思てます。
皆さんどうぞおまいりやしとくりやす。

 

ほなこの月もめでたし、めでたし。


第224回 福知山城

友人が「日本百名城探訪」に夢中になってる。

 

100名城は城郭愛好家や専門家の審査によって選ばれました。
2007年から100名城のスタンプラリーが始まって、すべてのスタンプが揃ったときは、日本城郭協会に

スタンプ帳を送ると「祝登城完了の印」と登録順位を記して送ってきてくれはるのんやて。

 

 

京都で100名城に選ばれてるのんは二条城やけど「続日本百名城」には福知山城が選ばれています。

 

来年の大河ドラマの主人公明智光秀が築城しやはったお城で来年になったら混み合うやろ。今のうちに

行きまひょとでかけました。

 

福知山城での光秀の在職期間はわずか3年間やったのに、地元では大人気で「光秀くん・ひろこさん」の

パネルが置いてある。光秀てこんなお笑いの顔とちゃうんちゃうかと思いつつ、天守へあがると

福知山の街が一望できる。

 

 

光秀は税を軽くしたり、氾濫をくり返す由良川の治水工事をするなど善政を敷かはった。

 

   月さびよ明智が妻の咄(はな)しせむ   芭蕉

 

話はとぶけんど、芭蕉が伊勢におまいりしやはったとき芭蕉の弟子の夕幻(ゆうげん)という人の家に泊まりました。

貧しいにもかかわらず夕幻夫婦のあたたかいおもてなしを受けて芭蕉はこの句を詠んだそうな。

 

「美しい月明かりのもとで明智光秀の妻の話をいたしましょう」という意味の句です。

 

光秀が出世する前、貧しい生活をしていました。
主人のために来られた客におもてなしをするお金がない。
それで妻は長く美しい黒髪を売ってお金にかえ、お客をもてなしたと伝わってます。

光秀は一生そのことを忘れずひろこさんだけを愛しました。

 

なんで自分をとりたてた信長を本能寺で討ったかはいろいろ説があるけど、領民にも慕われ、

正直でエエダンナやったんに違いおへん。

 

 

光秀が城を築く折に、石材・木材を運ぶ人たちがドッコイセドッコイセとおもしろく歌いだしたのが

福知山音頭の始まりと言われています。

次のような歌詞です

 

   △明智光秀丹波を拡め
    ひろめ丹波の福知山

   △お前見たがやお城の庭を
    今が桔梗の花ざかり

 

福知山城はもうすぐ整備にはいるそうな。
光秀の家紋は桔梗です。きっと桔梗をいっぱい植えはるのやろな。

 

 

6月2日は本能寺の変です。
光秀三日天下といわれ、信長を討って天下人になってからわずか13日に秀吉に討たれてしもた。

 

この本能寺の変がなかったら歴史はどう変わってたんやろ。

信長の息子はんはさほど優秀な人がいるとも思えへんさかい、息子の代で○○の変がおこったかも???

 

とにかく厄祓いにはみな月を食べるのんが一番。
戦のない世の中が一番です。

 

ほなこの月もめでたし、めでたし。


第223回 園部城

園部城は日本で最後にできたお城です。
もともとは櫓がないさかい陣屋とゆう扱いやった。

 

P1012052.jpg

 

うちのオバアちゃんのいうことには
「池田屋事件や禁門の変やとぶっそうな世の中やろ。
情勢によったら明治天皇さんを別の場所に移さんとあかん、と京都見廻役で皇室の警護に


あたったはった園部藩主の小出はんが、臨時の行在所としてお城を建てはったんやて」

 

「ほんで、天皇さんは来やはったんか?」

 

「いやいや、御所から出やはることはあらへんかった。
政治的な拠点としての役割は短かったんや。明治4年には廃藩置県がおこなわれて
藩はなくなってな、お城は官有地になって一部は民間に払い下げられたんや。」

 

P1012056.jpg

 

現在は園部高等学校と附属中学の校地となって、そのとき建てられた櫓門番所巽櫓は
校門となって生徒はんが門をくぐって勉強にはげんではる。

せっかく大工事でエエお城が建ったのに、天皇さん来てもろてお花見でもしやはったら

よかったのになぁ。

 

P1012064.jpg

 

話は変わるけど、中村軒二代目の龍太郎さんは園部城藩医の息子やいうことです。
長男とちゃうさかい中村軒へ就職(この頃はこんな言い方ちゃうのやろな)しやはった。

働きもんでお人柄もええさかい、主人(中村軒初代芳松)さんにみこまれて一人娘の養子にならはった。

 

このおじいちゃんの話は私が嫁に来てから毎日のように聞かされてました。

 

頭や良うて器用で優しいて男らしくて純情で、と歌に出てくるような人やったらしい。

お料理も上手で

「おじいちゃんの漬けはった奈良漬はそれはそれは美味しかった」と叔母は今だに言わはる。
「瓜の葛引きもおいしかった」

いったい嫁はんは何してはったんやろ?

 

戦争が始まると砂糖も小豆も入ってこうへん。
「うちは久邇宮御用達やさけ、闇のもん使て宮さんに迷惑かけたらあかん」と商売も出来ひんさかい、

店も閉めたまま、掛軸や骨董品を売っての生活が続いたらしい。

 

そんな中、おじいちゃんは畑を借りて野菜を作らはった。

「今日は食べるもんないなあ」と思てたら、あんたとこのおじいちゃんがお野菜やらおにぎりやと

 玄関に置いといてくれはった。情の厚い人やった」と今だに近所のオバアさんは言わはる。

 

私が嫁に来たときは従業員も一人ものうて、家族とお手伝いの親戚の人で仕事をしてました。

春は夜まで昼に摘んできたよもぎ掃除です。秋は翌日使う栗をむく。

 

気軽なとこへ嫁に行ってる友達と比べて「私は仕事と家事にあけくれて息つくひまもあらへん」

とグチグチゆうてたけど、ある日ふと思たことは、天国から外界をみたはるオジイちゃんが

自分の一族が一緒においしいお饅頭作りに一生懸命働いてる姿を見て嬉しいにちがいない。

 


「又あの嫁がふくれておるわい」と笑うて見てくれてはんのとちゃうか、そう思うように
なると何や楽しい気分になれたんです。

 

みんなに許してもらいながらも仕事を続けてると、お客さんから
「あんたとこの餡はほんまにおいしいなあ。どこへ持っていっても喜んでくれはる」
と言われるともう嬉しいて店中機嫌がええ。

 

それもこれもみなご先祖はんのおかげです。

 

ほなこの月もめでたし、めでたし。


第220回 京都の城跡「勝龍寺城跡」

このごろ京都の城跡に興味を持ってます。

 

桂から近い城跡では長岡京市の勝龍寺城跡です。

 

 

応仁の乱の頃には砦として使われてたけど、信長が細川藤孝に京都の防御拠点とするために

勝龍寺城の普請を命じます。

このお城が有名なんは何とゆうても藤孝の長男忠興と明智光秀の娘玉が結婚して、この勝龍寺城で

新婚時代を過ごさはったことです。

 

幸せやったんもつかの間で、光秀が主君の信長を本能寺で討ち取ったけど、秀吉との山崎の戦では

この勝龍寺城の近くに陣を構え、秀吉に敗れてしまわはった。

 

 

細川家は玉を味土野(丹後市弥栄町)に隠棲させはる。
ここも小さい城跡が残ってるらしい。

 

   身をかくす 里は吉野の奥ながら
   花なき峰に呼子鳥啼く   玉

 

二年後徳川家康のとりなして復縁しはるけど、再び家康と石田三成との政争に巻き込まれ、

三成の人質の要求を拒絶して家臣に介錯させて死なはるのんです。

 

   散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
   花も花なれ人も人なれ   玉

 

キリシタンやった玉の洗礼名はガラシャ。玉さんより細川ガラシャの方が有名です。

長岡京市では11月の第2日曜に、市民まつりのガラシャ祭が催されます。
私みたいな歴史ファンには嬉しい事でした。

 

 

ダンナさんの忠興さんは利休の七哲のひとりです。
玉さんと一緒にお茶を楽しまはったんにちがいおへん。

 

この時代のお菓子には「ふのやき」がようでてくる。
利休さんがお好きやったんやて。

小麦粉を水で練り鍋に薄うのばして焼いた片面に味噌をぬって巻いた焼菓子でクレープみたいな

もんやったんやろか?

 

又人気やったんは大仏餅で、この時代のエライ人の日記に『2月28日 細野忠興が大仏餅50個に

紅梅一枝を添えて届けさせた』と書いてある。

餡を包んだ餅の白さが売りやったそうな。

 

大仏餅屋は何軒もあったらしいけど、兵右衛門の大仏餅は太平洋戦争中の昭和17年に惜しまれ

ながら廃業しやはったとゆうことです。

 

お城も商売も残して次の代に続けていくゆうのんは大変なことやなあとお城跡を歩きながら

しみじみと思いました。

 


城跡の木々も芽吹いてきて春もそこまで来ています。
おまちかねのよもぎだんごも始まります。

よもぎにあるたんとのビタミンを食べて元気に頑張りまひょ。

 

ほなこの月も、めでたし、めでたし。

 


第217回 出雲大神宮

 

『美しい日本に出逢う旅』というテレビ番組で中村軒の栗赤飯を紹介していただきました。

この番組は山の京都という特集で亀岡の出雲大神宮の紹介がありました。

 

 

以前から島根の出雲大社の末社かしらんと思い興味があったんやけど、亀岡に大昔からお祀りして

はった丹波の出雲さんが、島根の出雲さんより元にあったということで、元出雲というそうな。

 

 丹波に出雲といふ所あり
 大社を移してめでたく造れり

 

と徒然草に書かれてます。

 

 

亀岡盆地の北東部、太古より崇められていた御陰山(みかげやま)のふもとに大社はあり、真名井の水が

絶えず涌きいでパワースポットとして人気です。

 

 

山には神さんがおりてきやはったという磐座があって近くに行くだけで元気をいただけそうです。

 

ここの出雲大神宮さんの正式なお名前は丹波国一之宮出雲大神宮です。
そもそも丹波という名は『丹』はあか、『波』は波立つことから、赤米の稲穂が波のようにうねる程

豊かな土地ということから付けられたという説もあります。

 

エライ先生がいわはることには、日本で初めてお米が伝来したのんは赤米やった。
収穫した赤米を神さんにお供えし、又お祭や御祝いの行事に使わはったんやけど、だんだん白米の栽培に

移っていく中で、古代にしてたように神さんにお供えするとき、厄除けの意味を持つ赤いお米でないと

あかんという信仰から、白米を小豆やキビで赤くしてお供えするようになりました。

 

 

中村軒では赤飯をきびがらの炊き出したお汁にお米を浸けて蒸し上げてます。
きびは消化作用もあるのんで一石二鳥です。


そやけどきびを作ったはる農家が減ってきて手に入れるのが一苦労です。
きび殻で赤飯を色付してるのは中村軒だけとちゃうやろか。

 

おついたちと十五日、誕生日、お祝い事には必ずお赤飯をお供えし、おさがりをいただいてましたし、

御祝いのお返しもたいていお赤飯と決まってました。

そんな習慣がいつから薄れてきたんやろ。残念やなあと思ってます。

 

そういうたらおばあちゃんは、おついたちには必ず氏神(うじがみ)さんへおまいりしてはった。

 

「先月は無事に過ごさしてもらいました。どうぞ今月もお力をたまわりますように」

 

毎月繰り返される言葉には、子供心に神さんからお力をいただいているという安心感と

自信を持つことが出来ました。

 

今の若い人々がパワースポットと言うてはるのんも、実は神さんのそばにいると清々しいおおらかな気持ちに

なるさかいに違いおへん。

 

おついたちには神さんにお詣りしてお家の神さん、仏さんにお赤飯をお供えし、おさがりをいただく。
日本人古来の生活をもどしてほしいなと思うこの頃です。

 

あたり一帯稲穂のなびく亀岡の出雲大神宮さんにおまいりして心もはればれいたしました。

 

ほなこの月もめでたし、めでたし。


第183回 猿丸大夫

 
  奥山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の 声きくときぞ秋はかなしき 猿丸大夫

あけましておめでとうございます。

P1017984.jpg

今年は申年です。

百人一首で親しまれてるこの歌は、猿丸大夫となってますけんど、実在の人物とちゃうんちゃうかと
エライ先生たちはゆうたはる。

梅原猛先生は昔の本に柿本朝臣猿(さる)と書かれているさかい、柿本人麻呂と柿本猿(猿丸大夫)は
同一人物という説をたてはった。柿本人麿はんは百人一首の三番目に出てくる

   あしびきの 山鳥の尾のしだり尾の ながながし夜をひとりかも寝む

の作者で、紀貫之はんは「柿本人麿なむ歌の聖なりける」とゆうたはるのに、ウチのオバアちゃんは
「人麿はんは火事よけの神さんどっせ」とゆわはるのや。

「うちに人麿はんのすがたが描いた御札もありまっせ。火気(かき)の元(もと)火止(ひィと)まる、やさかいなあ」



「エエカゲンなうそにきまってるわ」と言うと
「宇治田原に猿丸大夫さんをお祀りした猿丸神社があってな、それはエエトコでっせ。
 ここはできもん、瘤、癌が治ってしまうありがたい神さんですがな。人麿はんと猿丸はんがおんなじ人やったら
 火事は消える、癌は消える。けっこうなことやないかいな。」

こんなん聞いたら、すぐ行こ行こと出かけました。



宇治田原は昔から大和と近江・京都を結ぶとこで田原の栗、田原松茸が有名やったけど、
今はお茶ところ柿が名産やそうな。

山里にはいると禅定寺という一条天皇さんのときに建てはったお寺がある。
本堂は茅葺屋根でアワビの貝殻を散らしてあるのんが杣(そま)のお寺らしいてエエモンやわ。



禅定寺からしばらく歩いて滋賀県との境に猿丸神社がある。
ほんまに百人一首の歌のとおりの道で冬紅葉をかきわけながら歩く。
夜には鹿の声もするやろな。

P1017981.jpg

鹿の声ゆうたら中国の古い詩集の詩経に鹿鳴(ろくめい)の詩がある。
この歌は偉いお客さんをもてなすときに歌うことが決まってたんやて。

明治の鹿鳴館はこのことから名をとったと聞いたことがある。

神社では古来より歌道の神さんとして崇められ文人がこの地を尋ねてきます。
蕪村もその一人で「見のこしの茸のかほりや宇治拾遺」と俳句が伝わってます。

瘤とりの神、癌封じの神、デキモンを治してくれはる神さんとしても有名で、全国からおまいりにきやはる。

本殿の入り口には病気が治った人たちがお札に奉納しやはった瘤の付いた木ィがいっぱいおさめてある。

私が想像するに、サルマル、マルは瘤(癌)がサル(去る)さかいとちゃうかなあ。
・ヒィトマル 火事止まる
・サルマル 丸(癌)が去る

ちごたらお許し下さい。でも神さんの前に立つと素直な気持ちになるさかい、免疫力が高まって
病気が治るのんには違いおへん。

P1017986.jpg

このすがすがしい空気の中にいるだけでも気持ちが安らいできます。ありがたいことです。
猿聟(さるむこ)というめでたい狂言にもお猿が出てきます。

京都の嵐山に住む舅(しゅうと)猿のとこへ、吉野山に住む猿が聟入りします。
お供の猿たちにも盃がまわってにぎやかに酒宴となり、最後は舅と聟が揃うて歌うのです。

猿と獅子とは御使者のものを
これをば御代にをさめつつ
猶(なお)千秋や萬歳と
俵を重ねてめんめんに
俵を重ねてめんめんに
俵を重ねてめんめんに
楽しゅなるこそめでたけれ

火事は止まり、悪は去り
今年も楽しゅう一年が過ごせますように。
今年もおいしいお菓子お餅作りに励みますので、中村軒をよろしゅうおたのもうします。

ほなこの年も、めでたしめでたし。

| 1/4PAGES | >>

過去の記事

エリアごとに見る

関連記事

recent trackback

関連書籍

関連書籍

関連書籍

関連書籍

links

profile

search this site.

others

mobile

qrcode

powered

無料ブログ作成サービス JUGEM