第280回   源氏物語とお菓子

       第280回   源氏物語とお菓子

 

大河ドラマの「光る君へ」が始まつた。一話で三郎がまひろに
お菓子を渡す所があった。
この時代どんなお菓子やったんやろ?

 

源氏物語に出てくるのは「椿餅」。34帖「若菜上」では

 

「つぎつぎの殿上人は簀の子に円座めして、わざとなく、
椿もちゐ、梨柑子やうの物ども、様々に、箱の蓋ともに
とりまぜつつあるを、若き人々、そぼれ取りくふ 」

 

とあり若者たちが椿餅を食べている様子が伺える。
源氏物語の注訳書には「もちひの粉に甘葛(あまずら)
かけて椿の葉であわせたもの」と書かれている。
餡は入ってなかったみたい。あまずらというのんは蔦の
樹液を煮詰めた古代の甘味料です。

 

 

もう一つこの時代のお菓子が枕草子に出てくる。
三条の宮におわしますところという段に

 

「いとおかしき薬玉どもほかよりまいらせたるに青さし
という物をもてきたるを」

 

と書かれている。「青麦を煎って臼にて磨ればよりたる
糸の如し。よって青刺しという。」椿餅と違って今は無い

お菓子やさかい想像がつきません。
この時代蜂蜜や砂糖は高貴な人びとに薬として使われたそうな。

 

さて中村軒のある桂は平安時代から貴族の山荘が営まれ、
その一つに藤原道長の「桂家」または「桂山庄」と呼ばれる
別業があってこれが現在の桂離宮の前身になったのではないか
といわれてます。道長の日記「御堂関白記」によると幾たびか
桂家が利用されていると書かれている。

 


この山荘は「源氏物語」松風の巻にみえる桂殿のモデルになった
と伝えられてる。桂殿で遊ぶ光源氏に対して主上から
「月の澄む川の遠なる里なれば桂の影は長閑けかるらむ。」と歌が
届けられる。

 

桂離宮の創始者の八条宮智仁親王は細川幽斎から古今伝授をうけ
さらに源氏物語相伝を受けている。当代を代表する文化人やった。
桂の地に源氏物語の思いを馳せて離宮を作られたに違いない。

 

あれこれ源氏物語と縁のある桂に是非お越しください。
椿餅は一月で終わりますけど、うぐいす餅 よもぎだんご等
美味しい2月です。皆々でお待ちしております。

 

ほなこの月もめでたしめでたし。    


第278回   柚子

                             第278回   柚子

 

  生涯の傷をいたはる柚子湯かな   村山古郷

 

冬至にはかぼちゃを食べ柚子を浮かべた湯に入る習慣がある。
万病を防ぐと言われて江戸時代の銭湯では既に柚子湯があった
そうな。年末の忙しい時柚子湯に入るとそ柚子の色にも香りにも
癒される事間違いおへん。

 

柚子の原産地はチベットから中国の奥地で紀元前から作られて、
日本へは朝鮮半島を経て伝わったといわれ、平安時代には栽培が
始まってたらしい。寒い所でも育ちやすいのんで何処でも作られ
てるけど高知 徳島が栽培量が一番多い。でも昔から和菓子や
京料理に使われてきたんは京都の水尾の柚子で千年以上も作り
続けたはる。香りが抜群で日本での柚子の発祥の地とゆわれてる。

 

水尾は清和天皇がこよなく愛された所です。
清和天皇は9歳で即位しやはった。いろいろ政治的背景があって
藤原氏によって摂関政治が確立されていく時代。清和天皇の皇子の
多くは臣籍に下り清和源氏となった。天皇さんはストレスも多かった
んやろなあ。27才の若さで突然退位しやはって余生を仏道修行に
捧げはって31歳で亡くなられた。水尾の里を気に入らはって終焉の
地と定めはった。きっとたわわに実る柚子の里で静かに心を癒さ
はったんに違いおへん。ほんまにええとこで里を歩いてると心が軽い。

   

  村中の日を浴び柚子を求めけり   優江

 

 

中村軒の柚子のお菓子は水尾の柚子を使うてる。実がしっかりしてて
香りが高い。上用の皮に柚子を刻んでいれた上用饅頭の水尾、白小豆に
柚子の果汁がたっぷり入った柚子羊羹の水尾の里、そして柚子のママレード、
夏の柚子氷も水尾の柚子です。

 

最近始めた「かぜしらず」は柚子の中をくり抜き上等の葛を流し
いれたお菓子でこれだけは高知の柚子です。高知の柚子は大きくて
沢山葛を流しいれる事が出来るからです。電子レンジでチンすると
部屋中柚子の香りがします。葛は体を温め免疫力を高める作用が
あります。柚子は悪玉コレステロールを下げる効果があり高血圧の
予防や疲労回復。とにかく美味しくて体にようて気持ちも和らぎ
差し上げた方にとても喜んで頂けるかぜしらずです。

 

 

この冬も柚子のお菓子で健康なお正月をお迎えくださいませ。
今年も中村軒をご贔屓にして頂き有難うございました。
来る年もどうぞよろしくお願い申しあげます。

 

ほなこの年もめでたし めでたし。


第272回  かつら饅頭

 

中村軒は今年で創業140年になります。
その時お祝いに頂いた七福神の押絵の額は140年間店に飾っています。
下桂の七人のお裁縫の先生が一人一つずつ作ってくれはったと聞いて
います。
「めでたいさかい神さんが皆踊ってくれてはるのんや」とおじいちゃんはゆ
うてはった。
140年街道の移り変わり、店の様子を見続けた七福神です。

 

 

初代のお姉さんのお米さんが
「あっさりしたお饅頭を作りよし。あっさりしたお饅頭やったらもう一つ食
べたいと思うやろ。そしたら2倍に売れるさかいにな」
と言われてできたんがかつら饅頭で、太平洋戦争戦争時に朝鮮の李王殿下が
京都においでになった時、かつら饅頭のご注文があってお届けしたところ、
「こんな田舎(かつら)にこんな美味い饅頭が出来るのか」と絶賛して頂き
ました。
また久邇宮家の方々にも愛され、久邇宮家御用達の看板も頂きました。

 

 

お米さんが考えはったんで、私が中村軒に嫁いで来たときは『よねまんじゅ
う』と呼ばれ、大正2年に全国菓子競技大会で銀賞を頂いています。
「この時代の競技大会ではな、審査する人がほんまに食べて決めてはったん
やで」とおじいちゃんはゆわはる。
「ほな今は食べて決めはらへんのんか?」
「今は出品の数も多いし全部食べるわけにもいかんさかい、作り方や材料の
良し悪しやどれだけのお客さんに支持されたはるかその他いろいろで決まる
のやろな」
いろいろてなんやろ?きょうびやったら無添加とか小豆の産地とかかしらん。
この時頂いた賞状にはかつら饅頭の事を米饅頭とされてます。

地元の皆さんに好かれ、中村軒で仕事をしてる者みなが大好きな自慢のお饅
頭です。

 

     湯気たててかつらまんじゅう春たちぬ   優江

 

 

創業以来おくどさんで薪をもやして小豆を炊き井戸水でさらして漉し餡を作
ります。
これでさらっとした餡ができます。美味しないわけがありまへん。
平成15年にはこの道一筋の餡炊きが認められて3代目であるおじいちゃんに
黄綬褒章の沙汰があって皇居によんでもらわはった。
ほんまに有難いことでした。

朝星夜星とゆわれる饅頭屋の暮らしですが「うちのお饅頭をたべはった方が
ほんまに美味しいゆうてくれはった」と聞くと家中機嫌がええ。
150年目にも喜んでもらえる中村軒でありますように明日からもきばりまひょ。
絶品のかつら饅頭をぜひお召し上がり頂きたく是非桂へ中村軒へお越しくだ
さいませ。
心よりお待ちしております。

 

 

ほなこの月もめでたし めでたし


第270回  下桂御霊神社の能舞台

            第270回  下桂御霊神社の能舞台

                                   
下桂御霊神社は桂離宮のすぐ西北に鎮座する下桂の産土神です。
御祭神は橘逸勢公で、876年に勧請されました。

 

宮の境内に能舞台がある。創建の年代は不詳やけど多分明治末から
大正にかけてらしい。地元の大地主の風間八左ヱ門さんが築かれた
と伝わっています。能舞台ができてから三代目となる鏡板は剥落が
激しくて新しい鏡板にとは地元の念願でした。

 

そうしたところ京都市立芸術大学の宇野茂男先生(保存修復専攻)に
相談したところ「卒業前、大作に挑戦する事はいい経験になると
美術部の学生に呼びかけ鏡板の松の絵を制作して頂ける事になりました。
4年生8人が参加する事となって今年2月中旬から能舞台の楽屋で
作業を続け3月10日に完成しました。

 

                              ※4月16日まではご覧になれません。

 

鏡板は檜板を組み合わせたもので伝統的な日本画材の岩群青で青、
緑青で緑 貝殻で白を表わさはった。宇野先生は「100年以上
残るはずです」言うてくれたはります。
切戸口には桂離宮の竹にちなんで竹をあしろうて健やかに育つ
地域の子供をイメージして竹のこを加えて描かれている。
これが可愛らしいて評判です。

 

新調お披露目は、4月16日午前10時からで祭礼と除幕式の後
市立大の学生が能や常磐津を披露。桂六斎念仏を地元の保存会が
奉納します。
この能舞台の特色は地謡座で、蹴上げ式縁台となってます。使う時
だけ下すのです。素晴らしい能舞台。ご祭神の逸勢さんも喜んでくれ
はるやろ。

 

 

 

宇野先生は日吉町にお住まいです。日吉町世木地域は能楽の梅若家
ゆかりの地です。
梅若家は丹波猿楽の宗家と言われてもともと梅津に住んだはって
梅津という名やっつたけど37世のとき「蘆刈」を舞わはってその
素晴らしい出来のご褒美に土御門天皇さんから「若」の一字を
もらわはって「梅若」と改めはった。
梅津は逸勢さんの従妹さんで嵯峨天皇の皇后さんの橘嘉智子さんが
建てはった梅宮大社がある。梅若家は梅宮大社に仕えたはって、
驚いたことに梅若家の系譜は奈良朝の橘諸兄公に始まります。
下桂御霊神社の御祭神橘逸勢さんも橘嘉智子さんも橘諸兄公の
子孫です。色々と繋がりがあるのが面白いとも不思議とも思うのです。

 

この能舞台でクラシックのコンサートをしたらどうやろとか子供達の
劇も楽しいやろ。逸勢さんは琵琶の名手やったさかい平家琵琶もよろし
おすなあ。楽しい企画がいっぱいです。
桂離宮にある衝立の松を住吉の松とし御霊神社の能舞台の松を高砂の松
としておめでたい相生の松になぞらえてみるのも趣があるなあ。
離宮のお帰りには御霊神社においでやす。お能の高砂にはおめでたい謡
で終わります…

 

  「千秋楽は民を撫で萬歳楽には命を延ぶ。
                        相生の松風颯颯の声ぞ楽しむ 颯颯の聲ぞ楽しむ。」

 

これからも楽しい事がありますように。

 

春たけなわの中村軒では桜餅、よもぎだんご、花見だんご、茶房では
いちごあんみつなど揃えてお待ちしております。

 

ほなこの月もめでたし めでたし。

                                         


第269回  橘逸勢

                         第269回  橘逸勢

 

中村軒のある下桂の産土神は下桂御霊神社の橘逸勢公です。
逸勢はんは弘法大師、嵯峨天皇とともに三筆とされている。
遣唐使として唐にいやはった頃は「橘秀才」と呼ばれたのに
日本に戻ると無実の罪で伊豆に流されて亡くなられた。
無実の罪を着せられた人は「祟らはるえ」と恐れられて、
[すみませんでした。間違てました。]と謝ってお詫びにか、
慰めか知らんけど「許してください」と神社を建てはった。
今では書道の神、学業の神としてお祀りして信仰を集めています。

 

逸勢さんのご先祖は井手左大臣と呼ばれた橘諸兄です。
源平藤橘と言われる名家やけど藤原氏の勢力に押され家運が
はかばかしくなかった。そやけど逸勢はんの従妹に橘嘉智子はんが
いやはる。この人が嵯峨天皇の皇后にならはって正良親王を
出産しやはったさかい嘉智子さんのお父さんは太政大臣にならはる。
昔てこんなんばっかりや。ええ娘を持つと親が出世する。
それって如何なもんやろ。

 

出世とは関係ないけど私が中村軒に嫁ぐとき母は「あんたで務まるやろか?
お商売屋さんゆうのは朝星夜星ゆうて仕事が一番や。仕事をしながら
子供を育てるのも大変やし大家族の中で気苦労も多いえ。」と心配してた。
でも父は「こんな美味しいお饅頭を作らはるのは心がきれいなご家族や。
ご当代だけでのうて先代もその又前の方も正直にごまかす事のない仕事を
してきはったんに違いない。ちょっとでもええお仕事のお役にたつように
という気持ちが有るのやったら貰うてもらい。」とゆうてくれました。
お役に立つてるか足をひっぱってるか分からへんけど、取柄のない私が
出来る事はお店でも家の中でも明かるうする事や思てます。

 

話は戻って嘉智子さんは没落した橘氏の復権を目指す希望の星とならはった。
橘氏出身としては最初で最後の皇后です。仏教を深く信じ嵯峨に壇林寺を
建てはる。ここは日本で禅が唱えられた始めといわれてるけど皇后さんが
亡くならはってから衰え平安中頃に廃絶したそうな。
壇林寺の鐘の音が土中から聞こえるという話をきいた赤染衛門が詠んだ歌が
残されている。

 

  ありにしもあらずなりゆく鐘の音
            つきはてん世ぞ哀れなるべき   赤染衛門

 

壇林皇后の由来の大社が他にもあります。井手町に橘氏の氏寺として祀られてた
のを壇林皇后が梅津の現在の地に遷地しやはった梅宮大社です。
平安時代梅津は王侯貴族の別荘が作られたところで交通の要所でもありました。

 

 

  夕されば門田の稲葉おとずれて
             蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く   大納言経信

 

 

 

師賢朝臣の梅津の山荘にて詠めると出てくる。経信さんは琵琶をよくし別荘が
桂にあったので桂大納言とよばれ琵琶の桂流の祖と言われる。
そうゆうたら逸勢はんも琵琶の名手やったと伝えられています。
中村軒の近くの御霊神社の逸成さんから壇林皇后さん梅宮大社と京都は次々
つながりのある土地やとしみじみ思うこの頃です。
春のひと日梅宮さんへお詣りしまひょ。帰りはよもぎだんごが美味しい中村軒へ
どうぞお寄りくださいませ。一同お待ち致しております。

 

ほな今月もめでたし めでたし。
                                 

   


 第266回  相生の松

                       第266回  相生の松

 

能舞台のあとにある板を鏡板といって松の絵が描かれています。
なんで松なんやろと思ってたけど色々の説があるらしい。
影向の松が舞台に映ったとされるさかい鏡板と呼ぶのんやて。

 

影向というのは、神さんが姿を現すことで松は神さんが現れる
時の依り代となります。
影向の松で有名なんは北野天満宮で道真公は仏舎利に常に持っ
たはった。
道真公の没後、北野天満宮の造営のおり、初雪の降った夜明け
前に太宰府から北野に飛んできて、この松の枝に掛かったんや
て。
それより影向の松とよばれて、毎年初雪の降った日に、神さん
にならはった道真公がこの松に降臨して雪見の歌を詠まはると
伝えられて、初雪祭という祭典をしはる。

 

鏡板の話に戻りますけど、桂離宮のそばの御霊神社の鏡板が
傷んで修繕する事となりました。
昔は鏡板は狩野派の絵描きさんが描くと決まってたらしいけど、
御霊神社では京都市立芸術大学四回生の学生さんが教授のご指
導のもとに描いてくりゃはる事になりました。
どんな松になるのやろ。楽しみです。
桂離宮も近いさかい、離宮にある住吉の松やったら嬉しいな。

 


離宮には高砂の松もあったそうな。
お能の「高砂」はおめでたい能で、結婚の披露宴に謡われます。


むかしむかし。
九州阿蘇神社の神主さんが兵庫県の高砂の浦に立ち寄らはる。
そこにある松が高砂の松で、遠い住吉の松と合わせて「相生の
松」と呼ばれてる由来を尋ねると、夫は住吉に妻は高砂に住む
夫婦だけども、心が通っていれば離れていても近くにあると答
えます。
二人は相生の松の精とゆうて船に乗り住吉に去ります。
神主さんが跡を追って行くと住吉の神さんは悪魔を払い除け、
皆の長寿と平和な世を舞い祝うのです。

というおめでたいお能です。


先日、阿蘇神社へ行ってきました。
この話からでしょうか。ここにも高砂の松があります。
高砂の松の実を持ち帰り、植え育てた松と言われています。
縁結びの松として人気です。

 

 

御霊神社の能舞台の絵は、高砂の松にしたら池を隔てて離宮の
住吉の松とあわせ、相生の松となるんと違うやろか。

 

松といえば、桂離宮前の黒松も立派です。黒松は男松と言われ、
赤松は女松と言われる。松の木を燃やしたすすから墨が作られま
す。

俳句では松迎えという季語があります。

12月13日の事始めの日に門松や正月に必要な紀を山から伐って

くるのです。

 

  谷山に 子供の声す 松迎へ   森澄夫

 

松には日本の豊かな物語が沢山あります。そんな話も伝えていき
たいものです。

 

 

 

今年も最後の月となりました。新年には松の上用饅頭も作ります。

 


来る年もどうぞよろしくお願いいたします。

ほなこの年もめでたし めでたし.


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京都桂離宮畔 中村軒 http://www.nakamuraken.co.jp/
株式会社 中村軒 京都市西京区桂浅原町61 (075)-381-2650
販売は8:30〜17:30、茶店10:00〜17:00L.O.

「京のおかし歳時記」第265回 2022年11月1日発行
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第264回  下桂

                              第264回  下桂

 

桂大橋の西詰桂離宮の森を背に街道がのびている。今は八条通りと
ゆうてるけど山陰街道です。昔は下桂今堂とゆうて山陰街道の宿場
として栄えました。


大正時代のこの街道の地図がのこってて、これは桂地蔵の先代の
ご住職さんが書かはったそうな。
絵図をみてみると、川のたもとに中村軒があって、となりは万甚別館
となってる。宮沢賢治が盛岡高等農林学校の修学旅行で京都へ来や
はったとき、万甚で朝ごはんを食べたと賢治の全集にのってます。

 

 3月23日(木)曇り 午前4時9分京都駅着
 東西本願寺を訪れ桂橋際の万甚楼に6時到着

 

どんな朝ごはんやったんやろ。それが書いてないのが残念!

 

この地図をずっとみてみると、下桂村には銀行が2軒、郵便局、医院が
あり、牛方宿とあるのんは丹波から牛を売る商人が泊る宿やった。
そうゆうたら私が嫁に来たときはまだ牛を飼うてはる農家があって、
こしあんを作るとき、あずきの皮を「牛がよろこぶ」ゆうて届けてました。
そらビタミンB1B2がいっぱいあるあずきの皮でおいしいにちがいない。
この牛は長生きしたんやて。

 

又、街道に話をもどします。
塩屋が2軒もあるのんは大阪から淀川、桂川へと船で塩を運んでたといわれてます。
肉屋さんもあったんや。今もこの地図に残ってるのんは、中村軒、自転車屋はん、
塩屋はん、地蔵寺、有名な桂飴さんは2013年に店を閉じはった。


地図の角に書いたある春日神社のご祭神は、「あめのこやねのみこと」はんで、
日本神話で天照大神が天の岩屋に隠れはったとき祝詞(のりと)をあげはった方です。

この春日神社は桂離宮の南隅にあって離宮の笑意軒とはちょうど裏側にあたり、

奈良の春日大社の方角に鎮座されてます。

 

 

平安時代、藤原道長はんが桂に別荘を創らはった。源氏物語には桂殿と

よばれる建物が出てくる。
南禅寺金地院の僧崇伝が桂離宮を訪れ、桂亭話を書いてはる中に、桂別荘は
源氏物語の桂院とよばれた土地であると書かれています。
藤原一族のどなたかが氏神さんである春日神社をここに作らはったんにちがいおへん。

 

 

山陰街道を往来する人のお土産が中村軒の「かつらまんじゅう」やった。
創業者(芳松)のお姉さんが「甘いおまんじゅうやったらひとつしか食べられへんやろ。
もうひとつほしいなと思うようにあっさりした餡のおまんじゅうを作りよし」と
言わはって、かつらまんじゅうが出来ました。このお姉さんは「お米(およね)」とゆう
名やさかい、昔のお客さんは「米(よね)まんじゅう」とゆわはる。
中村軒で働く者がみんな大好きなかつらまんじゅうです。

 

 

京都もいよいよ紅葉の季節です。ぜひ、おいでやしとくりやす。

ほなこの月もめでたし めでたし。


第262回  夏の飲み物 

                             第262回  夏の飲み物 


  麦藁の今日の日のいろ 日の匂い   木下夕嗣

 

子供の頃の夏の飲み物は麦茶やった。身体を冷やしてくれる効果がある。
おばあちゃんはちょっと塩を入れてはった。水分をとりすぎると血液中の
塩分がうすまるさかいやろ‥昔の人はほんまにかしこい。

 

昭和30年頃、中村軒では夏に冷やしあめを売っていました。麦芽の水飴を
炊いて生姜のしぼり汁を加えると、麦芽のあっさりした甘さに生姜のピリッと

きいた味が暑さを忘れさせました。
昔は、麦芽の水飴を熱湯で溶かして熱いのを飲んだようで、暑いときに
熱いものを飲んで汗を出すのんも消夏法で体にも良いのんです。
自動販売機があんまりないときやったんで、とぶように売れたんやて。

 

冷やしあめは今も人気やけど、ちかごろ大豆コーヒーを始めました。
大豆を焙煎しミルで挽いたもんで、ノンカフェインで血液中の老廃物を
除去するビタミンB群があるさかい疲労回復効果があります。

桂で作られた麦のストローで召し上っていただいてます。

 

 

ストローは英語でstrow。これは麦わらを意味する言葉です。
プラスチックとは違うやさしい口当り。このストローは天然のライ麦で
無農薬自家栽培です。飲まれたあとはぜひおもちかへり下さい。しっかり
してるので、洗って干すと何度も使えます。使ったあとは細かく切って
土にかえしてみて下さい。土もよろこびます。

 

 

子供の頃、ストローはもちろん麦で、お客様が来やはったときだけお出し
しました。飲物はサイダーかカルピス。
お客様が来やはったら、「あんたたちもお相伴しよし」と麦のストローで
サイダーを飲んだ、懐かしい想い出です。

 

夏の中村軒は、水羊羹、かき氷、冷やしあめ、そして大豆コーヒー。
体に良うて、おいしい夏。ご来店お待ちしております。

 

ほなこの月もめでたし めでたし。


第261回  麦 

                                 第261回  麦 


  麦刈れば 麦を育てし土乾く   谷野予志

 

小麦は人類最古といわれる作物やそうな。日本に伝わったんは
紀元前1世紀から4世紀の弥生時代とされてます。
稲作と共に中国から伝わったらしいけど小麦は乾燥地を好む作物で
湿気の多い日本では広まらへんかったらしい。

 

本格的な栽培が始まったんは江戸時代で麺類やおまじゅうに使われた。
明治時代になると西洋の文化が入ってパンの普及が広がってくる。

 

そやけど、三輪そうめんは1200年前、大神神社の宮司さんが三輪の
土地と三輪山から流れる清流が小麦の栽培に適してるのを知って
種をまき、小麦粉を原料にそうめんの製造が始まりました。

中村軒でも三輪そうめんを使って、夏は冷しそうめん、冬はにゅうめんを
お出ししてよろこんでいただいてます。

 

 

奈良時代から平安時代までは索餅(さくへい)と呼ばれ、小麦粉をこね、
縄状の麺を二つ折にしてよじったもんやったそうやけど、鎌倉時代に
禅宗が伝来したとき中国の影響で油をつけて延ばし、細く長くする
ことが出来るようになりました。1100年前、7月7日七夕の儀式に
索餅が供えられて無病息災を祈られたと伝えられてます。

 

中村軒のあるこの桂は明治22年に関西地区として初めて葛野郡川岡地区で

ビールの原料である大麦ゴールデンメロン種の栽培がはじまりました。

 

桂での小麦の収穫(昭和13年)               (目で見る京都市の100年:郷土出版社より)

 

この頃は麦刈りのあと田植えをするのんでお百姓さんは大忙しです。
それで田植の時、間食(けんづい)として田んぼに麦代餅を届けてました。
田植の終った7月はじめ半夏生(はんげしょう)のころ、そのときの
間食(麦代餅)の代金として麦代餅2個につき麦5合をあつめにまわりました。
お得意様である農家へのお手伝いの意味もあったんやろ。お餅を麦と
交換したんで麦代餅の名が生まれました。

 

 

桂では麦畑をみることもなくなりましたけど、最近麦の栽培を
始められた方がうちのお得意さんでいやはる。
麦をいただき店に飾ってます。麦わらストローもいただきました。
子供の頃は麦わらのストローやった。

 

  いつまでも明るき野山 半夏生   草間時彦

 

 

 

だんだん暑くなってきました。コロナも少し下火になってきたようです。

中村軒のおそうめんぜひ召し上ってみて下さい。
社員一同お待ちしております。

 

ほなこの月もめでたし めでたし。
 


第256回  朝原山

                                  第256回  朝原山

 

オミクロン株が広がってる毎日、何とかならへんのんかいなと言いながら
家にこもってます。

 

こんな中の楽しみは、京都新聞の朝刊コラム「渡りくる人びと」を読むことです。

「渡りくる人びと」とは秦氏のことで、渡来の時期は5世紀末と筆者の
井上満郎先生はゆうたはる。

古代の京都、特に嵯峨野、松尾あたりは渡来人がたんと住んではって、人口比率は
70%にもおよぶらしい。この辺の古墳は5世紀後半に作られた豪族のお墓です。

 

實朝僧正(宇多天皇の孫)が遍照寺を建立するときに開拓しやはったんが右京最大の
池である広沢の池です。この広沢の池を開拓したのが秦氏で、続日本紀に秦氏が
朝原忌寸の姓を賜うたとしるされてある。

 

忌寸(いみき)ゆうのんは天武天皇が制定しやはった八色の姓(やくさのかばね)の第四位で
主として渡来人に与えられた。

 

広沢の池の背にそびえる姿のええ山が遍照寺山で、古うは朝原山(ちょうはらやま・千代原山とも)
と呼んだんやて。
秦氏は朝原の地名をとって朝原忌寸としやはったんにちがいおへん。

 

 

新羅語のハタは海を意味し、海を渡ってきた人、ハタビト=海人が秦の原義ともいわれてる。

高い文化水準のもと、すぐれた技術を持って渡来してきた人々が当時の日本人に評価されて
いろんな技術が伝わりました。

 

池の西側から突き出た島を観音島といい千手観音さんが立ってはる。この小島に立って池を守り、
世の中の移り変りを見てきやはったんやなぁ。

 

   月に来て 皆 をがみけり 観世音    うえまつりょう山

 

   音たてて 枯れゆく芦の辺を通る      那須乙郎

 

広沢の池あたりはいちばん嵯峨野らしい風情が残ってる。

 

朝原山でふと思い付いたんが中村軒近くの桂小学校のむかいにある春日神社の事です。

立てふだを読むと「当社は古代山背国葛野郡朝原(ちょうはら)郷の氏神」とある。
いつも千代原(ちよはら)と呼んでたけど、古い時代は朝原(ちょうはら)やったんや。

 



桓武天皇の娘はんの朝原内親王は伊勢神宮斎王から帰京されて当地へ戻られたと
しるされている。この朝原(千代原)にお屋敷もあったんや。

 

朝原という名前のつながりと秦氏の活躍の広さを謎解きのように楽しんでいる私です。

 

話は変わりますけど、韓国の人からあずきをのせたよもぎ餅のご注文をいただいたことがある。
よもぎにはたんとのビタミンがあって魔除けになるのんも昔むかしに「渡りくる人びと」に
教えてもろたんかもしれん。

よもぎは浄血作用があって、治療薬草として韓国でも大事にされてる。モグサとしてお灸にも
利用されてる。

 

立春は4日。中村軒ではいよいよよもぎだんごの季節です。古代からの知恵、よもぎをたんと
搗きこんだよもぎだんごを食べてコロナに打ち勝ちましょう!

 

めでたしめでたし となりますように。
 


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