第216回 太秦とハチミツ

10月13日は十三夜。


後の月と呼んで9月の十五夜から十三夜まで月の美しさを楽しみます。

 

十三夜まで月見だんごを作ってたけど、十三夜を忘れたはる方が多い。
「片見月はあきまへんえ」というと

「十五夜に食べたさかいなあ。中村軒のみかさは『月』ゆう名前やさかいみかさを食べよ」と言わはる。

 

   久かたの月の桂も秋はなほ
     紅葉すればや照りまさるらむ
              壬生忠岑

 

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この歌が袋に印刷してあって、中のみかさが月のようにうつって見えます。

みかさの皮は国内産のハチミツと卵、小麦粉をまぜて焼き上げてます。ふんわりした皮が人気です。

 

日本で初めてハチミツが使われたんはいつなんやろ。


もの知りのオバアちゃんいわく

「百済の太子余豊さんが蜜蜂を三輪山へ放さはったと日本書紀に書いたあるし、奈良時代には

 三韓から貢物として献上されてまっせ。平安時代にな、蜂のおもしろい話があるえ」

 

その話というのんは、蜂が大好きな公家はんがいやはったんやて。
足高(あしたか)、角短(つのみじか)、羽斑(はねまだら)おいう名を蜂につけて飼いならしてはって、

宮廷に蜂が群れてきたとき、大臣は冷静に蜂の好物の枇杷を差し出したところ蜂はその蜜を吸うて

おとなしゅうなったんやて。


藤原宗輔(むねすけ)ゆう立派な名前があるのに蜂飼の大臣(おとど)と呼ばれてはったゆえんです。

この方は政治に口出しすることはのうて、笛や琵琶の名手です。

娘のお姫様もやっぱり笛の才能があり、父と同じく虫が好きやったそうな。

堤中納言物語に出てくる虫愛づる姫君のモデルはこの父娘やということです。

 

もうひとつの趣味は草花を育てること。菊や牡丹を育てて親しい人にプレゼントしてはる。
公家が土いじりをするなんてほんまに珍しいことやったらしい。

86歳まで長生きしやはったんは、ハチミツをなめたはったんとちゃうか。


この時代は国内でハチミツの生産が始まって、食用や薬としてだけではのうて、

貴族が香料としても使てはったらしい。

 

私が前から気になっているのんは、京都の太秦に蜂ヶ岡という地名があることです。

昔太秦の大きな森に蜂が群がって人を近づけへんかったんやて。

 

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聖徳太子の耳には蜂の羽音が僧がお経を読む声にきこえ、ここは霊地に違いないと言わはって

秦河勝はんがお寺を建てはった。

古うは蜂岡寺といわれてたのが、今の広隆寺です。

 

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京都での最古のお寺で、平安京のできるより早く先進文明をもった一団がこのあたりに住んだはった。

大陸から来やはった秦氏です。

 

土木工事、特に養蚕、機織りの技術を伝え、絹布をうず高く積んで天皇さんにささげはったんで

「うずまさ(太秦)」の名をもらわはった。

私が思うのんにはいろんな文化とともに養蜂も伝えはったに違いないと思うのです。

 

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秦氏は始皇帝の子孫とも、イスラエルから来やはった人とも言われてますけど、謎に包まれた氏族です。

 

広隆寺を出てしばらく行くと蛇塚古墳があります。

 

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ここが秦氏のお墓とされています。ヘビがたんといたさかい蛇塚古墳とされてるけど、蜂もいたんちゃうか。

古墳をのぞきながらハチミツが日本へわたって来た道を思いました。

 

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秋の夜長、温かいお茶を入れ「月」を食べながら古代の京都を思うのも風流でっせ。

 

ほなこの月もめでたし、めでたし。


第182回 無事是貴人



年末はこの掛軸を掛けます。

今年も無事に過ごさせてもらいました、という意味やと思てたら
「禅の世界では人間は本来仏やという深い意味があるときいてまっせ」
とオバァちゃんは言わはる。

この軸を書いてくれはったんは、元大珠院のご住職の故盛永宗興老師です。
ご縁があって様々な良いお話を伺いました。
そのたび自分を立て直し、心の糧にさせていただいた事を亡くなられた今もありがたい事やと思っています。

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老師のおられた大珠院は龍安寺の山内にあります。修行のお寺ですので拝観はできまへん。
拝観は龍安寺へおまいりしとうくりやす。

龍安寺の方丈の前庭は枯山水の石庭として有名で、15個の石が白砂に置かれています。
15個の石の配置はどの位置から眺めても、必ず1個は他の石に隠れて見えんように配置されているのやて。

古代中国の考え方では15は十五夜に結びつき完全を意味します。
完成した時から欠けていく月になぞらえて、完全数の15に1つ足らへん14の石を置いたとエライ先生がゆうたはる。

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大珠院の盛永老師の話に戻りますと、老師が亡くならはってから久しいのやけど、
老師のお話で特に心に残ってるのんはお赤飯の話です。

あるロータリークラブの会長さんのお祝会でお料理にお赤飯の握り飯が添えられたんやそうです。
そして次のようなお話をされました。

「私は農家の長男でした。
 夜遅くまで働いても一生貧乏のまま。弟や妹を学校へ行かせることもできん。
 一旗揚げようと家を出る決心をし、今日こそ、と朝早く起きるとその日にかぎって母親は水仕事をしてる。

 黙って通り過ぎようとすると『赤飯を炊いたから食べて行きなさい』と言われ、赤飯を口に入れたのですが、
 涙がこみ上げて喉を通らない。それを見て母親が
 『食べられないのやったら、おにぎりにするから』とおにぎりを渡された。
 それを持って逃げるように真っ暗な道を泣きながら駅に急いだのです。

 家出を止めもせず咎めもせず怒りもせず、密かに赤飯を炊いて自分の家出を祝ってくれたのです。
 真面目に一生懸命働いた甲斐があって、名士の集まりと言われるロータリークラブの会長に推されるようになりました。
 これはひとえに母親のおかげ、赤飯の握り飯のおかげと思うので、そのことを聞いて頂きたく、
 料理に赤飯を添えさせて頂きました。」

その話を聞いて老師は
この母親は今の母親に比べて情報にもうとく、知識もなく教育も受けてはらへんにも関わらず、
息子がいつ何をするかということを的確に見透す知恵がある。
そのすばらしい智恵の裏付けのある愛情が赤飯を炊いて送り出すという素晴らしい働きをしたと
感じて涙をながしたと話されました。

この方にとってのお母さんのお赤飯のおにぎりが一生のお守りにも励ましにもなったのでしょう。

中村軒では毎日お赤飯を蒸します。お赤飯を作るたびこの話を思い出すのです。



お赤飯はたいていはお喜びの日のお祝のしるしに家庭で、又はお知り合いに配られることも多いのですが、
家族の安全と子供の成長を祈る心に変わりはありません。

そのようなお手伝いをできることもありがたいと思っています。

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中村軒にはもう一つ老師から頂いた扁額があります。

声無人呼 (こえなくしてひとをよぶ)



美味しいですよと言いふらさなくても、ほんとうに良いものを作っていればお客様は来てくださる
という意味やそうです。

中村軒で働いている者の全員、本当においしいもの体に良いものを作って行きたいと思っています。

本年はありがとうございました。
来る年も相変わりませずよろしくお願いいたします。

ほなこの年も、めでたしめでたし。
 

第144回 井戸水

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   底見ゆる一枚岩や秋の水   夏目漱石

10月にもなると空気が澄んで、水に映るもんも透明ですがすがしい。

京都は水に恵まれた都で、あちこちに名水がある。
その水で作られた麸・湯葉・豆腐、そして和菓子は「やっぱり京都どすな」という美味しさです。

中村軒では表と裏の二箇所に井戸水が出ます。
保健所の方が検査に来やはるのやけど、
「なんと冷たい水。長いこといろんなとこで検査してるけど、こんな冷たい井戸水ははじめてや。
 こんな水でごはん炊いたらそら美味しいやろ」と誉めてくれはる自慢の名水です。

この水を使うて昔からのおくどさんでクヌギの割木を燃やしてじっくりと餡を炊きます。
小豆をこしあんにするときにさらすのもこの井戸水です。
さらっとしたほれぼれとする餡ができあがります。

中村軒は桂川のそばにあるさかい、川水が井戸水となってわいてくるのやと思てたら、
うちの水脈は愛宕山の水が地層をくぐった伏流水やゆうことです。

中村軒にも近い下山田には「山田ノ井」があって、昔は「清水社」という名水を神さんとして祀ったはった
神社があったそうな。

859年、山城国正六位上澄水神とかかれた記録があるんやて。
ここも同じ水脈にちがいおへん。

「なんで愛宕山の水脈がおいしいのんやろ」とエライ先生に聞くと、
「愛宕山は日本一の砥石の産地やさかい、その石の層をくぐって流れてくる水は自然のミネラルを含んだエエ水に
 決まってます。砥石の山は古代より『王城五里を離れず』ゆうて、都の近くにあるのんやけど、
 ええ砥石の出る山の近くを都と定めはったんや。エエ都はエエ水があるゆうことですわ。」

砥石の地層の年代は2億年前とゆわれてます。
そうゆうたら山好きの友達が愛宕山に砥石谷ゆう名が付いたとこがあると言うてはった。
今は道も途絶えてしもたらしい。

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砥石の歴史をきいてみると、梅ケ畑(愛宕山のふもと)の本間藤左衛門さんが菖蒲谷の山中で見つけはった
砥石を献上しはる。又、源頼朝からは日本礦石師棟梁として免許をもろて採掘師とならはったんがはじまりなんやて。

本阿弥家が刀剣の鑑定をするかたわら、砥石山の生産流通に関わったはったそうな。

梅ケ畑に行ってみとうなった。
ここは宇佐八幡さんより勧請しやはった京都最古の平岡八幡さんがある。
勝運出世の神さんで、神殿天井に44枚の極彩色の花絵が描かれてる。

これらは足利義満さんが再建しやはったときに、花大好きの義満さんが描かさはったんと
ちゃうかといわれてます。

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参道にある石はほとんどが砥石で、神殿にも見事な大砥石が奉納されてました。
椿の名所でもあり
「やっぱりお水がエエさかい見事な花が咲くのんやわ。
 ほら、水の神さんの『みずはのめのかみ』さんもお祭りしてはる。

例祭は10月第一日曜で三役相撲が奉納されます。

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このお相撲は大人と子供が相撲をとり、必ず子供に勝たせてあげるというほほえましい
相撲で、村の人達の優しい気持ちが伝わってきます。

孫の食べ初めをするのんで、神主さんにお願いして神社の砥石を頂いてきました。

お食べ初めは生まれて生後百日目か百二十日目に赤ちゃんにお乳以外の食べ物を口に含ませて
一生その子が食べ物に困らないようにと願いを込めて祝う儀式です。

「120日よりあとにのばすと食いのばしゆうて赤ちゃんが長生きできる」とおばあちゃんはゆうたはった。
祝膳をあつらえて、献立はお赤飯とお吸物、頭(かしら)になれるように頭付の鯛、そして赤白黒の小石を用意して
赤ちゃんにかませて歯が丈夫になるよう祈願するのです。

お祝いのあと昔はこの石は台所の水ために入れてました。
きっと砥石の間をくぐってきた水がおいしくなるように、自然の石には水をきれいにする
効果があるのんを昔の人は知ったはったにちがいおへん。

おばあちゃんはいつも「水の恩」ゆうてはった。
今の生活では考えられへんほどお水を大事にしてはった。
つるべでくむ井戸水やさかい、電気代水道代がいるわけやないけんど、朝洗面器一杯の水で歯を磨いて
顔、手を洗うて、それでも残った水は植木にやりにいったはったなあと思い出しました。

開発に伴うて井戸水が出んようになったとこも多いときいています。
おかげさんで中村軒では餡を炊くのも、そうめんをザブザブ洗うのも、みんなとびっきりおいしい井戸水です。

水の恩を忘れんようにしようと皆で話したことでした。

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どうぞおいしい水が枯れませんように。
そしていつまでもおいしいお菓子が作り続けられますように、平岡八幡さんにお願いいたしました。

ほなこの月も、めでたしめでたし。


第138回{ 芹を摘む }

3月はおひなまつりでよもぎだんごをお供えします。

よもぎはその香りで病を防ぎ、邪を払うとゆわれてて、3月3日頃に摘むよもぎが一番ええとされています。
季節の節目にたんと食べてビタミンを採るとゆう昔の人の知恵にちがいおへん。

3月になると芹も三つ葉も伸びてきて野へと出て摘むのんも楽しい。

芹は一ヶ所から競り合うてはえてくるさかい、セリとゆうたそうな。

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西行の歌に「何となく芹と聞くこそあはれなれ 摘みけん人の心知られて」ゆうのんがある。
これには元になる話がありますねん。

昔、後宮で庭掃除をしてた男が芹を食べたはるお后さんを垣間見てひそかに思いを寄せるようにならはった。
それから毎日芹を摘んで御簾のそばへ置く日が続いたけんど、男は恋患いになって亡くなってしまわはった。

いまわの際に娘をよんで、「自分は物思いが募って死んでいくのや。不憫に思うてくれるのやったら
功徳のために芹を摘んでほしい」と言わはったんやて。

娘は芹を摘んで仏に供え、僧侶に食べてもらうことにしました。
その後娘は后の下働きをするようになり、后に亡父の話をすると、たいそう気の毒に思わはって、
娘をそばに置き目を掛けられるようになった、という事です。

そのことから「芹を摘む」ゆうたら高貴な人に叶わぬ恋をするという意味に用いられました。

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大河ドラマ清盛で北面の武士佐藤義清(のりきよ)行が出家して西行となる。
藤原頼長はんの「台記」によると

「そもそも西行はもと兵衛義清なり
 中略
 家富み、年若くし、心に愁なきについにもって遁世
 人これを嘆美するなり」

と記されている。西行の出家は謎とされてるけんど、叶わぬ恋のためやったんやろか。

   山家集に一首すぐれた恋のうた 君に見せむと栞を挿む   川田順

この歌は西行の歌より身近やわ。

「嵐山に西行の伝説の地がいろいろあるねん、行こ行こ」と又出かけることとなりました。

天竜寺より東へ300メートルほどいくと瀬戸川に架かる竜門橋があります。
昔このへんに酒屋があって、西行が立ち寄り

「つぼの内 にほひ来にけり梅の花 まずざけ一つ春のしるしに」と詠まはると、
「壺の内 にほひし色はうつろひて 霞は残る春のしるしに」とこたえたんで、
西行は返歌に困ったんでこの橋を歌詰橋というようになりました。

歌詰橋 嵐山瀬戸川 嵐山芹川橋 嵐山

この歌詰橋の下を流れる小川は芹川で、今は瀬戸川という名になってしもた。

「なんで変わってしまうねん」
「そら諸行無常、世の中変わらんもんはひとつもない。
 そうおもて西行は出家しやはったんとちゃうのん?」
「へぇ〜、叶わぬ恋のためちゃうのん?」

謡曲に「恋の重荷」ゆうのんがあって、これも年老いた人が佳人に思いを掛け、この荷物をかついで
庭を何百回も歩いたら佳人に逢はしたるといわれ、持ち上げようとするけど持ち上がらず亡くなってしまう話。

先ほどの川田順にも恋の重荷の詩がある。

   若き日の恋は はにかみて おもて赤らめ
   壮子時の四十歳の恋は 世の中に
   かれこれ心配れども
   墓場近き老いらくの恋は怖るる何ものもなし
                  (恋の重荷 序)

昔の人は純粋やったんや。
現代も恋愛で死ぬことてあるやろか。

「食欲がなくなって食べへんさかい栄養失調で死ぬんちゃうか。
 中村軒で働いてたらあかんわ。
 目の前にちらつくもんは美味しいもんばっかり。
 餅にだんご、ぜんざいにわらび餅。死んでる場合やおへん」

お菓子

もとにもどるけんど、
60歳すぎてから人妻に老落の恋をして自殺未遂の末、その方とめでたく結婚しやはったという川田順の詩

   何ひとつ成し遂げざりしわれながら
   君を思ふはつひに貫く
                 川田順

あーうらやましいような、しんどいような。

   凡人に恋の重荷はもち切れず
   ただよもぎ餅食ふばかり
                 優江

ほなこの月も、めでたし、めでたし。


第104回 愛宕の志んこ(鳥居本)

鳥居本

何時から「いが饅頭」を作らんようになったんやろ。

5月のお節句が終ったら柏餅をやめて米の粉の生地に赤や緑で染めたお米を付けて稲の花とみたてた餅菓子を作ってました。

プチプチとしたお米の食感がおいしいて「稲花まんじゅうおへんか」と年配の方が訪ねてきやはる。
やめた理由は「着色料を使うのを嫌う方が増えたさかいなあ」とうちのダンナは言います。

作らんようになったお菓子をあれこれ思うこの頃です。
志んこもその中のひとつで、花見だんごが終ると志んこになります。
花見だんごと同じ米の粉を水でこねて、搗いたおだんごでニッキと白との二色を別々に作って交互に並べて売ってました。

今は三色だんごに変身し、くろみつ・白・抹茶と串にさして売ってます。
串にさすと三つの味が楽しめるのんで、この方がお客さんに好まれるようになってきました。

志んこで有名なんは愛宕山名物の志んこです。愛宕山頂の愛宕神社は火の神さんをお祭りしたあって昔から
「伊勢へ七たび、熊野へ三たび、愛宕山へは月参り」とうたわれ、桂の私たちの村でも愛宕講があって、愛宕山へお詣りし、
「阿多古祀符 火廼要慎」のお札をもろてくると講衆のお家へ配ります。

鳥居本の一の鳥居は愛宕神社の起点で、ここから五十町の山坂を登りお詣りします。
一丁目ごとにお地蔵さんがいてくれはると共に、昔は茶店が一丁目ごとにあったそうで、
明治の初めまで19軒を数えたとゆうことです。

1 愛宕山坂エー
  しんしん しんこでも たんと食べ 上りや うんと坂 坂エー 坂坂
2 25丁目の茶屋のかかあ かかあ だんなさん
  しんしん しんこでも たんと食べ 上りや うへと坂 坂エー 坂坂

と詠うてお詣りの人に「志んこ」を売らはったそうな。

安永7年(1778年)の水の『富貴寄』という本の名物の部に「あたごしんこ」が出てきますし、
江戸初期の『毛吹草』という俳書には「愛宕粽 参詣之 道者の土産に之を用う」とあります。

地元ではこの粽のことを愛宕志んことゆうていて、ねじってあるのんは愛宕山坂道の姿やといわれています。

志んこで腹ごしらえして又帰りにはお土産にも重宝されてたんやろなあ。
現在は鳥居本の鮎茶屋平野屋さんで愛宕名物「志んこ」をおうすと共にいただけます。
風雅なお皿にのってて、ニッキ、ヨモギ、白の三色をきなこと黒砂糖でよばれます。

鳥居本鳥居本

平野屋さんは創業400年を越えるお店で、山からの風の通る店でいただくと心も安らぎますえ。

「20年に一回屋根を葺きかえるのどすけど、今までお願いしてた方がご高齢ですねん」と古いお店を守られてるご苦労を伺いました。
茶店で出さはるごはんはおくどさんで炊いてはるそうで、おいしいはずどす。

ここのおかみさんの京都弁はほんまに愛らしいて聞きほれてしまいます。
平野屋さんは400年、中村軒は120年そこそこですが、お互いさんにお客様に喜んで頂けるようにきばりまひょ。
火事には気ィつけまひょ。
愛宕さんが守ってくれはるさかい大丈夫どすなあ、と楽しいお話をさしてもらいました。

鳥居本

6月30日は夏越の祓で、室町時代の日記『多聞院日記』には小麦で作った餅を食べる風習があったと記されています。
これも今は小麦粉を使うて作る水無月に変わってきています。
ビタミンのある小豆をたっぷりのせて、これからの暑い夏をのりきろうという先人の心意気がお菓子となりました。

もろもろの神さんのおかげでこの半年も無事にすごせたと、ありがたく食べる水無月です。

ほなこの月もめでたしめでたし


第95回 嵯峨野の月(大覚寺)

大覚寺

陰暦8月15日の月は中秋の名月で古来より観月の宴が催されていました。

嵯峨大覚寺の大沢の池では竜頭船を浮かべての観月の夕べがある。
この大沢の池は奈良の猿沢の池、大津の石山寺と共に三大名月観賞の地として知られているのんです。

大覚寺

異国にお月さんを仰いで「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」と遣唐使やった安倍仲麻呂は
ふるさとの月を想い涙しやはったんやろ。

どら焼は京都では三笠という名で呼ぶのもこの歌の三笠山にみえる満月をイメージしたお菓子の名前です。
中村軒では「月」として売らしてもろてます。

  久方の月の桂も秋はなほ もみぢすればや照りまさるらむ
                                   壬生忠峯

の歌を袋に書いているのがなかなか評判よろしい。
月にある桂の木も秋になると紅葉するのんで秋の月はますます輝いているのやろ、という意味らしい。

電気の灯りがなかった頃は闇に輝く月がどんなにかありがたかったことやろ。
特に太陽が沈むとすぐに昇る満月の明るさは神々しう思えたに違いおへん。

大覚寺

私ら庶民のお月見には縁側にススキと月見だんごを供えて、月の光の中で紅絹(もみ)の裂(きれ)で糠袋を縫わされた。
「お裁縫が上手になれるようにお月さんにお願いしィもって縫いよし」とゆわれてもなあ・・・

そもそも電気の光の下でもまっすぐに縫えへん私です。
縫いあがったんをみてオバアチャンは「あんたの縫い物は八丁三(はっちょうみ)とこのとばしぐけどすがな。
糠入れたら出てきまっせ!だいたい常から落ち着きがあらしまへん」
ネチネチと毎年のように叱られる。

「この糠袋で顔を洗うと色が白うなるえ」といわれても、私にかぎりご利益はなし。
十五夜の縫い物は今から思うと手の感覚を養うけいこやったんやろ。
「こんなん性にあわへん」という私におばあちゃんはついに「勝手にしよし!」とゆうことになりました。

出ずきな私は嵐山あたりをウロウロすることにします。
渡月橋は亀山上皇が「くまなき月の渡るに似てる」とゆうて渡月橋と名付けはったらしい。

大覚寺

このあたりに小督塚があります。
小督は高倉天皇の寵愛をうけはったけど高倉天皇の中宮建礼門院のお父さんである平清盛に睨まれて
このあたりに身を隠してはった。

高倉天皇は悲しんで、源仲国に「何とかさがして来てんか」と頼まはる。
源仲国は「琴の名手の小督は月のきれいな宵には必ず琴をひくにちがいない」と嵯峨野へでかけはる。
亀山のあたりまでくると琴の音がするのんです。

8月10日の夜であったと平家物語は書いたはるけど謡では8月15日十五夜の月の下と出てくる。
どっちやねん。

 峰のあらしか松風か 尋ぬる人の琴の音が おぼつかなくとは思えども 
 駒をはやめてゆくほどに 爪(つま)音高き想夫恋
                               平家物語

仲国が琴の音をきいたという琴聞き橋は今もあります。

大覚寺

嵯峨野は秋がよろしい。
「秋の月はかぎりなくめでたきものなり」と徒然草の中で兼好法師もゆうたはる。

特に北嵯峨のあたりは竹林に囲まれ心が洗われるようです。嵯峨御所とよばれる大覚寺を奥へとたどっていくと直指庵があります。
近衛家に仕えた村岡局が後生を送ったところです。

「思い出草」というノートがおかれ
「そっとその意地を私の心(ノート)に捨てて下さい。苦しむあなたをみているのがつらいのです」と書かれています。
この言葉をたより、心を書きつらねたノートは5000冊にものぼっているそうな。

生木を裂くように高倉天皇とひきはなされた小督やったらどんなふうにノートに書き込まはるのんやろ。
清盛への恨みか、権力に負けんと強う生きてほしかった高倉天皇への思いか。

私も何か書きたいと思うたけど「まんじゅうは中村軒へ」ではノートの主旨と離れてしまうようでやめにしました。
ここも又、月の美しいところです。

大覚寺

今年のお月見は中村軒のおだんごを供へ、久しぶりに月あかりで糠袋を縫うてみよかしら。
小督のごとく色が白うなるかもしれん。

ほなこの月もめでたしめでたし。


第94回 蓮(法金剛院・花園)

法金剛院

8月はお精霊(しょらい)さんが帰ってきやはる。

お精霊さんにお供するのんはお家によっていろいろやけんど、白いお餅は毎日お供えします。
15日は蓮の葉に白むしを包んだ蓮弁当をお供えする。これはお精霊さんが善光寺さんへおまいりしやはるさかい、
その折のお弁当やそうで、帰って来やはったときをみはかろうてスイカを切ります。

中村軒の蓮弁当

「せっかく彼の世から家へ戻って来やはったのに善光寺さんまで行かんでもええのに」というと、オバアチャンは

「導きたまえ弥陀の浄土へ…。とこの世にいやはる人も自分と同じお浄土へ行けるようにと 先祖さんが詣ってくれはるのや。
 あんたは何でも頭でしか考えへん。目にみえるもんしか信じ ひんのがあきまへんえ。
 お浄土には蓮が咲いているそうな。そんでな蓮の葉に白むしを包んでお弁当にするのんえ。
 どなたはんでも成仏できるとゆう法華経が広まってな。南無妙法蓮華経の蓮華ゆうのんは蓮の花のことで、
 法華経の前の部分は花(現世の姿)、あとは実(真実の世界)を表してるのんやて。
 蓮は花と実が一緒に見られるさかい教えにかのうてますのや。汚れた泥の中から清らかな花が咲くし、葉は水をはじいて
 とらわれることがないゆうて和尚さんが教えてくれはった。」

「鍋もんのときのおさじは散った蓮の花びらに似てるさかい散蓮華ゆうのんやろ」
「佛さんのありがたいお話してるのになんであんたは鍋もんの話するのや」

法金剛院法金剛院

とにかく蓮の話は尽きず「蓮の寺」と呼ばれる花園の法金剛院に行ってまいりました。
ここは右大臣清原夏野が山荘を建て珍しい花を植えはったさかい花園ゆう地名になったらしい。

次いで文徳天皇が伽藍を建てはって天安寺とされ、その後平安時代の末、鳥羽天皇の中宮
待賢門院が天安寺を復興して法金剛院としやはった。

法金剛院

待賢門院は崇徳・後白河両帝のお母さんです。
知っといやすとは思いますけんど保元の乱はこの崇徳帝と後白河帝の争いに
それぞれ大臣も兄と弟、武士も父と子、兄と弟が敵味方となる戦となってしもた。

崇徳上皇は後白河天皇軍に敗れ、法金剛院に入らはった。
保元物語によると「仁和寺へ進ぜられて明日讃岐国へ移らせまいらすべき由申させたまふ」
この仁和寺とは法金剛院のことらしい。昔法金剛院は仁和寺殿とよばれてたそうな。

「御室の仁和寺とは違うのや」とオバアちゃんは力説する。
「どっちゃでもエエやん、お近くどすがな」
「エエことあらへん。お母上の造らはったとこへ入らはったんや、あんたは情緒がおまへん」

  ながからむこころも知らず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ
                                        待賢門院堀河

待賢門院の侍女として仕えた堀河の君の歌で、あの恐ろしい保元の乱、すさまじい崇徳上皇の死も見てきた人やと思うと
これは恋の歌だけとちゃうのんとちゃう、とものを思うてみる。

法金剛院法金剛院法金剛院法金剛院

今も蓮は美しく咲きほこっています。
枕草子にもありました。

  蓮葉 よろづの草よりも すぐれてめでたし
  妙法蓮華のたとひにも 花は仏にたてまつり
  実は教珠につらぬき 念佛して往生極楽の
  縁とすればよ

お盆にはご先祖さんをしのんで中村軒のお餅、蓮弁当をお供えいたしましょう。
極楽行きの乗物のお席がとれるようにと、法金剛院の阿弥陀さまにお願いしてまいりました。
信じるお方は極楽へ行けることまちがいおへん。
ほなこの月もめでたしめでたし。


第81回 ところ天の話(清滝)

清滝

暑い夏、中村軒で大好評なんはかき氷で、日曜なんかは申し訳ないほどお客様に待ってもらわんならん。

ベースになる蜜は蜂蜜と白砂糖で炊き上げる。
これがみぞれの蜜で、宇治氷ならばこの白みつで上等の宇治の抹茶を溶きます。これを氷にかけると宇治氷。
お茶屋さんが「こんな上等の抹茶を氷の蜜に使わはんのんですか、もったいない」とあきれられてるけんど
エエもん使うとおいしいもん出来上がるのはアタリマエでっしゃろ。

これにあんをのせて白玉をのせると宇治金時です。珍しいところではこの白蜜を自家で漬けた梅酒でわって氷にかけると
梅酒の氷の出来上がりで、中に梅酒のゼリーを入れてます。氷華(こおりばな)という涼しげな名前を付けて「なかなかイケルやん」と
さわやかさを喜んでもろてます。

  かき氷 ふふみて熱くなるおもひ
  兄以上恋人未満 かき氷 
                   黛まどか

若々しい句で、素敵な二人が目にうかんでくる句ですね。
氷と共に人気なんはところ天で、関東は二杯酢にときからし、のり等を入れて食べ、京都では黒砂糖の蜜で食べます。
中村軒の黒蜜は沖縄波照間産の黒砂糖で炊いています。アマ・カラどっちも用意してますけど私は
やっぱり黒蜜やなあ。

子供の頃からところ天を心太と書くのんを不思議に思ってました。

『和菓子のいのち』に書かれている河田昌子さんの「寒天の履歴書」にところ天の話が詳しく出てきますので
紹介させていただきます。

 平安時代にテングサは凝海藻(コルモハ)とよばれ、又は心太(ココロフト)と呼ばれていたそうな。ココロフトの語源は
 ココロ(凝也)フト(太也)で太い凝海藻の意味と言われています。 凝り凝り(コリコリ)が転じてココロとなった、
 ココロフトがトコロトテンになったんは、ココロフト→ココロタイ→ココロティ→ココロテン→トコロテンという順やそうで
 江戸時代にはところ天となりました。奈良時代に経文を写す仕事の人に心太を給与したと正倉院宝物文書に書いたあるらしい。
 これから千年たったある日、京都伏見の美濃屋さんに島津候一行が泊らはった。夕食に出さはったところ天料理が残って
 外に放っといたところ寒い夜中にところ天は凍って、翌日暖かくなったら溶けるという偶然の繰り返しが生じました。
 このようにしてできた天然の寒天をみつけて溶かしてみたら、もとのところ天より透明でしかも海草臭のない
 おいしいところ天が出来ることを発見しやはった。 
 これを食べはって「仏家の食用として清浄無垢これに勝るものなし」とほめて寒天と名付けはったんは隠元禅師です。

中村軒のところ天

芭蕉の句に

  清滝の水汲ませてやところてん(一説に 水汲み寄せてところてん)

ゆうのんがある。芭蕉が嵯峨清滝を悠遊しはったときの句で、清滝にこの句碑があるというのんで
相棒と探しに行ったけんどみあたらへん。

  清滝や波に散りこむ青松葉

の方は大きな句碑がある。

清滝

清滝は昔愛宕詣の宿場町でにぎわったとこやけど、今は源流にそったハイキングコースとして名高い。

  ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ二里
  水の清滝 夜の明け易き 
                     与謝野晶子

の句碑も最近新しく建てはった。

清滝

清滝から清滝川に添って登っていくと、京都一涼しいと思うところに出ます。
それは高さ12メートル、幅1メートルからなる大きな滝で、空也上人が修行しやはったということで空也の滝という。

冷風が吹きまくり、ここで持参した「くず桜」をいただいて一服するとみるみる汗がひいていきます。
ここは京都の穴場。ナイショナイショの場所です。

清滝清滝

7月31日夜をかけてこの清滝から愛宕神社へおまいりすると1000日のおまいりに匹敵すると言われています。
愛宕信仰は今も盛んで、全国に八百ほども分社があるときいています。

清滝清滝

辛抱のない私は家から毎日愛宕山を仰いで、火事がおこりませんよう、餡を炊くええ火がさずかりますようお願いしています。

愛宕山にいやはる神々は笑うて私の願いをきいてくれはることでしょう。

めでたしめでたし


第73回 大内山(御室八十八箇所・仁和寺)

 行き先を決めず小春を誘ひ合い 安沢阿弥

旧暦10月今の11月を小春とゆうて気持ちのええ日ィが続くのんで秋の叙勲を始め記念式典やら表彰式が多い。

うちのおばあちゃんの時代には「11月は木の葉が散るさかい縁起が悪おすさかい婚礼はあかん」
とゆうたらしいけんど、そんなことゆうたら一年中さしさわりがある。

冬は雪が降る 春は桜が散る 夏はごちそうが傷む、どないせえゆうねん。

京都人は暦を大事にしやはって、
とりわけ結婚に関しては挙式の日取り、お見合い、結納、荷出しの日取りを大安にとゆうお家も多い。
お祝に行くのんも大安の午前中と暗黙の了解がある。

これは先様に対する気配りで
「今日は大安でお祝いに来ておくれやすやろし中村軒で紅白のおまんを買うてお茶菓子にして、おためも用意しとこ」と
段取りがつきやすいのんです。
午前中ゆうのんも午前中に来やはらへんかったら午後からはいろんな用意をするため外出も出来るさかいです。

お互いに過ごしやすうできてるなあと感心します。
5人くらいお祝いに来てくれはるとして、紅白薯蕷を5組用意してるのに7人も来てくれはるときがあります。
そのとき便利なんが「大内山」とゆわれる紅白の押物です。
これは紅白薯蕷を型どったもんで日持ちがするのんで、ふいにおいでやしたお客様にお出しするお菓子として
いつも用意しておくと重宝します。

「大内山」ゆうのんは天皇が住まはる大内裏を意味する言葉で、昔やんごとないお方がこのお菓子をお召し上がりになったんか、
又は上等なお菓子という意味合いがあるのんかわかりません。

大内山のそもそもの意味は仁和寺の北の山の名前で宇多天皇がこの山麓に御所を営まはったんで山名となったそうな。
そういえば「大内山」の押物のようにこんもりした山です。

  白雪の九重に立つ嶺なれば おほうち山といふにぞありける   中納言兼輔

仁和寺

仁和寺第29世門跡済仁法親王の御本願により。1827年に寺侍に四国の88ヶ所を巡拝させはって各霊場の土を
持ち帰って作らはった御室88ヶ所霊場があります。

仁和寺
仁和寺

私の叔母はお大師さまの大ファンで88個の小さいお餅を中村軒で注文しておまいりしやはる。
札所は小さい御堂で中にお大師様と四国札所の本尊様が祀られています。

第27番は宇多源氏の始祖源雅信の墓と伝えられる巨岩がある。

仁和寺仁和寺

小鳥のさえずりを聞きながら野の花の間を巡ると心もはればれ、眼下に広がる京都の眺めはすばらしいでっせ。
でも京都の街も甍が少のうなって白い建物が多いけんど。

仁和寺

仁和寺はいろんな物語を思い出すとこです。
北院跡は仁和寺の北にあって保元の乱に敗れはった崇徳上皇が弟さんの仁和寺宮覚性法親王をたよって
しばらくいやはったという。

平経正が平家一門が都落ちするとき、親王から賜った青山の琵琶を返上にきやはったんもここやったと
あれこれ読んだり習うたことを思い出す。

仁和寺の門跡から「仁」の一字をもらわはって御室焼を始めはった清右衛門(せいえもん)こと仁清(にんせい)の窯跡も近くにあります。
仁清は自分の焼いたもんに「仁清」とサインを入れはった。陶器に作者が銘を入れたんはこれが初めときいてます。

仁清の窯跡

小春の一日、この88ヶ所をお詣りいたしました。
おいしいお餅が搗けるよう、美味しい餡が炊けます様と1ヶ所ごとにお願いをしてまいりましたので、
ますます美味しくなること間違いございまへん。

仁和寺

お喜びの日ィには中村軒の紅白薯蕷「大内山」をどうぞご用意くださいませ。

ほなこの月もめでたしめでたし


第55回 柏餅と三船祭

冬には褐色の枯葉を寒風にさらされて冬を越してきた大きな柏の葉

「柏の葉には葉守の神さんがいやはる」とおばあちゃんはゆうたはった。

五月頃、若葉が出てから前の年の古い葉が落ちることから、家系が途絶えへんとゆう縁起をかついで
五月の節句の柏餅として使われるようになったと言われています。

昔、中村軒では大枝の東長へ柏の葉を採りに行き、乾燥して翌年の柏餅に使うたそうな。
乾燥した柏の葉を炊いてもどし、だんごを包んで葉と一緒に蒸すと柏の葉のなんともいえん香りが付いて美味しい。
今は塩漬したもんが原料屋さんから来てそれで包んでるのんであんまり柏の葉の香りがせえへん。

「なんで乾燥葉を使わへんのんえ?」と言うと、とにかく生地にくっついて葉から離れへんらしい。
食べよう思てもひっついた葉をとるのんが一苦労。せわしない現代人に合していろいろと変わってくる。

柏の葉は古代には食物を蒸すときや食物を盛る器として使われてきています。
コキシ(米などを蒸す器具)にお米をいれて蒸すときに底に敷く葉がかしわの葉で、カシワという言葉は「炊ぐ(かしぐ)葉」から
きています。朝廷で食事を司る職名を膳司(かしわでのつかさ)と呼び柏殿は食事を用意する場所やったそうです。

車折神社

5月はお節句もあり祭月でもあります。
「お祭には親しい人を呼んでお赤飯と一緒に柏餅も食べてもうてます。中村軒のんを皆さん楽しみにしてはって」と
お客さんから言われるともう嬉しゅうて嬉しゅうて。

5月の第3日曜は車折神社の三船祭りがあり、嵐山の渡月橋のあたりで王朝の船遊びが再現されます。

車折神社車折神社

詩歌船、書画船、献茶献花船、謡曲船など芸能船が新緑の大堰川を上下します。
その昔、宇多上皇の行幸の折、大堰川で船遊びが行われたことにちなんで昭和三年の御大典行事として
催されたんが始まりとゆうことです。

車折神社車折神社

藤原道長が大堰川で漢詩の船、音楽の船、和歌の船を浮かべそれぞれの道にすぐれた人をのせはった。
公任大納言はどれにも優れてたんで「どの船にしはります?」と聞かれて「ほなまあ和歌の船にしときまひょか」
とゆうて詠まはった歌が

   をぐら山 嵐の風の寒ければ もみぢの錦着ぬ人ぞなき

「素敵やおへんか!」とはやしたてると公任は「漢詩の船にしといたらもっとエエ歌を作れたのに残念」とゆわはったらしい。
ちょっと一言多てイヤミやおへんか。

時代はくだって、大納言経信ゆう博学多芸の人がいやはった。
白河天皇が大堰側に行幸しやはったとき、詩・歌・管絃の三つの船を浮かべ経信がどの船にのるのか
全員注目の的やのに、本人があらわれへん。仕方なく船を出したその後、悠然と経信があらわれて
「さて、いずれの舟にてもよし。こなたへ寄せ候え」と大声で呼ばはった。この一言が言いたかったばっかりに
わざと遅刻してきはったんや。古今著聞集には「かくいはんれうに遅参せられけるとそ」と書かれたりしてはる。

公任、経信、この両人を三船の才というて三船祭のときはいつもその話が出る。それから1000年近うたってんのに
「あの人はなあ、どの船に乗っても私は何でも出来まっせと言いたいために 遅れてきはったんや」
と毎年お祭たんびに言われてはる。

車折神社

この人の別荘が桂にあったんで桂大納言と呼ばれ琵琶に「桂流」をひらいて祖とならはった。
詩や歌、管絃以外に政治能力はなかったんやろか。
この頃は王朝文化も終わりに近い頃で、しっかりせんと時代は武士に移ってしまいまっせ。

   経信   夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く

   息子(俊頼)   憂かりける人をはつせの山おろしよはげしかれとは祈らぬものを

   孫(俊恵法師)   夜もすがらもの思うころは明けやらで閨のひまさへつれなかりけり

親子三代にわたって百人一首に摂られている。そして孫の俊恵法師の歌の弟子が「方丈記」を書いた鴨長明となります。

うちの中村軒も今、おじいちゃん・うちのダンナ・息子と三代そろうてお菓子造りに励んでいます。
三船の才はのうても、まじめ・元気・ヤル気で三種類の柏餅(味噌餡、粒餡、こし餡)作りに精を出す五月です。

お菓子

三船祭のおかえりにはぜひ中村軒にお寄り下さい。美味しい柏餅でお待ちしております。

めでたしめでたし。

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