第181回 南天

  
 紙を干す光の中の実南天   きくちつねこ



今月は南天の軸を掛けました。
画の作者は広田百豊(ひろたひゃくほう)さんで竹内栖鳳さんのお弟子さんです。

「花や実のなる木の掛軸を掛けたら床の間にお花はいらんえ」とオバアちゃんは言わはる。
どっちも引き立たへんさかいやろか。庭の紅葉が座敷から見えるさかい花はいらんかもしれん。

南天は「難(なん)を転(てん)ずる」と音が一緒やさかい、鬼門に植えられます。
又南天の葉は健胃解熱鎮咳の作用がある。
「長寿ばし」と呼ばれるお箸は南天の木で作るし、咳止めは南天のど飴。

さまざまなお祝のおかえしにとお赤飯をお配りするときには、南天の葉を添えます。
これも難を転じるというだけではのうて、南天の葉に含まれてるナンニジンという成分が、お赤飯の
水分によってチアン水素を発生させ腐敗を抑える作用があるとエライ先生がゆうたはる。

11月は七五三詣、おひたきの神事、亥の子餅、叙勲など、おめでたい行事が続く。

お火焚きにはおたまの焼印を押した紅白のお饅頭を作ります。
メリケン粉で作ったお饅頭で、薯蕷より安うできると昔は言われてたけど、この皮が大好きとゆう人が多い。
実は私もこれが大大好きです。

中村軒のお火焚き饅頭

旧暦10月の亥の日は炬燵(こたつ)や火鉢を出す日ィで、火伏せ神の愛宕山のお使いの猪を型どった
亥の子餅を、亥の日亥の刻に食べて無事を祈ります。

中村軒の亥の子餅

七五三のお祝には栗のお赤飯で祝います。栗のいっぱい入ったほこほこのお赤飯はどなたさんにも喜んでもろてます。

話はまた南天に戻りますが、金閣寺の夕佳亭に日本最大という南天の床柱があります。
この木ィは足利義満はんが琉球王国から取り寄せはったんやて。
ここは金森宗和が建てはった茶室で、夕暮れに夕佳亭から眺める金閣が夕日に映えてすばらしいことから
名前が付いたそうな。今は周りの木々が大きなってみえしまへん。



金閣寺は世界遺産やけど国宝と違う。それと私が長いこと信じてたことは金閣寺の最上層の天井版は
楠天井の一枚板とゆわれてたけど、複数の板を使うた鏡天井ということが最近わかったんやて。

一層だけ金箔が押してないのんです。なんでやろ、費用が無かったはずはない。
これがワタシは昔から不思議やった。

作家の井沢元彦はんが『天皇になろうとした将軍』という本の中でようわかるように書いてくれたはります。

金閣は各階の様式が異なって、
一階は金箔なしの寝殿造、二階は金箔を貼った武家造、三階は金箔を貼った中国風の禅宗仏殿造。
とゆうことは公家より武家がエライ。武家よりも禅僧の方がエライ。
ほな禅僧とは誰やろ。
義満は将軍の位を息子の義時に譲って出家して、形式上は禅僧になってはる。
そやさかいこの金閣は「一番エライのはこのオレ様や」と言いたいんちゃうか、と元彦はんは書いたはる。
中々面白い話でっしゃろ。

デモ私が想像するのんは、公家はんたちが「あんなもん成金趣味でっせ。まろは金ピカの中におると
落ち着かへんでごじゃる」と陰口ゆうたはるに決まってます。



義満はんは明との交易を始めはったさかい、この頃から砂糖の輸入が盛んになったんやて。
新札往来(1367年)ゆう本の中に砂糖饅頭との記述がある。
義満はんも砂糖を使うて作った餡のお饅頭を食べたはったんやろ。

今はよろしおすえ、将軍さんちごても砂糖で炊いた美味しい餡が食べられます。
中村軒のおくどさんで炊いたおいしい餡を包んだ亥の子餅やお火焚き饅頭は絶品です。
ぜひ食べに来とうくりやす。従業員一同お待ちしております。

ほなこの月も、めでたしめでたし。

第178回 白蓮是佛勅使



今月はお盆やさかい沢庵さんの白蓮の掛軸を掛けました。
沢庵さんは37才まで大徳寺第154世住職とならはったんやけど、名利を嫌うて3日でやめはったんやて。

いろんな逸話のある方で、私には宮本武蔵に出てくる沢庵さんが一番近しいのやけど、
「武蔵と沢庵和尚の出会いは自身の創作である」と吉川英治さんが書いたはる。

徳川家光にダイコンのたくわえ漬を出さはったら「たくわえ漬ではのうて和尚の名である沢庵漬にせよ」
と言われたとか言われてますけどほんまやろか。

又関ヶ原で処刑された石田三成の遺体を引き取り手厚く弔ってはる。
これはほんまのことで、水上勉はんが
「沢庵を論ずるのに石田三成という悲将の生涯がまつわるのも故なきことではない」とゆうたはる。
秀頼のため戦うた三成がきっと好きやったに違いおへん。

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一休禅師が再興しやはった大徳寺には沢庵さんとご縁の塔頭がたんとあります。
住まいにしてはったんは徳禅寺
三成さんのお墓のある三玄院
沢庵さんの和歌の先生でもある細川幽斎さんの塔頭は高桐院
茶道三千家の墓所となってるのは聚光院

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大徳寺には大きい蓮池はあらへんけど、沢庵さんは蓮の花が好きやったんやろか。

「蓮は花と実が同時にみられるさかいありがたいえ」とおばあちゃんは言わはる。

「蓮葉よろずの草よりもすぐれてめでたし
 妙法蓮華のたとひにも
 花は仏にたてまつり
 実は数珠につらぬき
 念仏して往生極楽の縁とすればよ」と枕草子にかかれてる。

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私が思いつくだけでも蓮はええ事が多い。
・泥の中から清らかな花が咲く
・葉が水をはじく(とらわれることがない)
・蓮根でも種からも繁殖する強い生命力

泥炭腐の下から2000年前の3個の蓮の実ををみつけて発芽に成功しやはった大賀博士は
もとは大和の当麻曼荼羅など古代の布を研究してはった。

当麻寺ゆかりの中将姫物語に次のようなお話がでてきます。

継母に妬まれ命さえ狙われていた中将姫は、継母を恨むこと無く読経三昧の生活を送っていました。
姫が生身(しょうじん)の阿弥陀さんを拝みたい、とお祈りしてはったら、
一人の尼さんが「蓮の茎を百駄(馬百等分)用意したら願いを叶える」といわれたので、
蓮の茎をたんと集めはったんやて。すると尼さんは蓮の茎から糸を採らはる。
そこへもう一人の尼さんが現れて、一晩のうちに一丈五尺の曼荼羅を織りあげはったそうな。
最初の尼さんは阿弥陀如来で、後からきやはったんは観音菩薩やったそうな。
今もミャンマーでは蓬莱で僧衣が織られているときいてます。

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お盆にはうちの先祖さんも帰ってきやはる。

8月15日には蓮の葉に白むしを包んで蓮弁当をお供えします。
これはお精霊(しょらい)さんが善光寺さんへおまいりしやはるときのお弁当です。

私たちもお相伴してこの日は白むしをよばれます。
これがおいしいて、たくわんの二切ほどあったら他は何にもいりまへん。
これもみな先祖さんと沢庵さんのおかげです。

ほなこの月も、めでたしめでたし。

第175回 虎

今月は富田渓仙の虎の絵です。



渓仙は中国の仙人の絵をいくつも描いたはって、これは「王延」という虎を操る仙人です。

五月は端午の節句やさかい、これがええやろといつも五月に掛けてます。
「端午の節句に虎を飾るのんは何でやろ」とゆうてると、オバァちゃんいわく

「虎は仙人や高僧を守る従者やゆわれてますえ。そやさかい虎のように強い子に育って
ほしいという願いから、この虎を飾りますねん。厄除け魔除けにもなりまっさかいに」

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「江戸時代に大阪でコレラが大流行した時に、虎頭殺鬼雄黄円(ことうさっきおうえん)という
虎の頭蓋骨を砕いて作った薬がよう効いてな、この薬と張り子の虎のお守りを配らはったら
大阪のコレラの流行がおさまったんえ」

ほんまかいな。日本に虎ていいひんのちゃうのん。

「それだけやあらへん。虎さんは(急にさん付けに…)鞍馬寺の毘沙門さんのお使いでっせ。
鑑真和尚の高弟の鑑禎さんは、お正月初寅の夜、北方に霊山のあることを夢にみやはって
毘沙門天をおまつりしやはった。
そやさかい毎年正月初寅の日にみんなお参りに行きますがな。」

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鞍馬はよろしおすな。
木の芽煮も美味しいし、トチ餅もある。

栃の実のアクをぬくのに中村軒まで灰をとりに来たはったお饅頭屋さんがあった。
中村軒ではクヌギの薪であんを炊いてるさかい灰がでるからです。

栃の実はデンプンやタンパク質が多いさかい、お米が作れへん山村では飢饉の時の
飢救作物として重宝されてました。
天井裏に備蓄する民家もあったんで、栃の木の勝手な伐採は禁じられてました。

鞍馬の毘沙門天さんは土地の大木から作られてるそうな。
きっとこのあたりは栃の木が多かったんやろ。

「とにかく鞍馬へ行こ行こ。虎のお守りも買わなあかん」とでかけました。

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鞍馬山には65000万年前に人類救済の使命を帯びて金星から魔王さんが降りて
きやはったときいてます。

牛若丸もここで修行してお力をさずからはったんにちがいおへん。
奥州へ下る牛若丸が背くらべをしたといわれる背くらべ石があります。

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遮那王が背くらべ石を山に見て
わかこころなほ明日を待つかな 鉄幹

遮那王とは牛若丸の鞍馬山での稚児の名で、元服してからの名は義経です。
昔の人の名はややこしい。

魔王殿までもうちょっとあるしこの辺で休も。
中村軒から持ってきたちまきをたべまひょ。

昔はちまきを包む笹も鞍馬あたりの笹を使てました。今はだんだん少のうなってきてます。



笹は浄化作用があって、邪気を祓うと言われています。
おだんごやお寿司を包むと乾燥をふせぐし、香りもエエ。

自然からいただいたもんはやっぱり体にもエエし風情もよろしい。

鞍馬の尊天さんの教えの中に

互いに摂取し合い消滅しあいながら
共に生きるいのちの環
めぐる大自然が環の中に私たちも生かされている
とあります。ごもっともごもっとも。



美味しいお菓子を作って皆さんに喜んでもらお。
それが私にとっての一番のよろこびと修行です。

毘沙門天さん虎さんよろしゅうお願いいたします。

ほなこの月も、めでたしめでたし。

第170回 除夜の鐘

   除夜の鐘 闇はむかしにかへりたる 五十嵐播水

鐘の音や鈴の音が不浄を浄める働きがあることを昔の人は感じてはった。

中世では天皇さんのおいでになる前には必ず鈴が鳴らされたそうな。
1年の最後の夜には古い年を除き新年を迎えるために撞く鐘を除夜の鐘とゆうて人間の持つ108の
煩悩を除き浄めるため、108回撞かれるのやて。

京の三名鐘として知られてるのは、

 1、形の平等院
 2、音の妙心寺
 3、銘の神護寺

3番めはややこしいけど、橘広相(学者で文章博士)が序を書き、菅原是善(これよし・菅原道真の
お父さん)が漢詩を作り、藤原敏行(としゆき・書家で三十六歌仙の1人)が書かはった。

又の説では

 重さの方広寺
 大きさの知恩院
 古さの妙心寺

と言われてます。

「京都には撞かへんけど有名な鐘がありまっせ」と声をかけられる。

僧の安珍に恋した清姫に、「帰りに必ず立ち寄る」と約束しながら裏切った安珍。
蛇に変身した清姫が日高川をかけのぼり道成寺の釣鐘にかくれた安珍を、
「許さんでおくもんか」と焼き殺してしまう。

この釣鐘が道成寺の鐘です。

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なんで蛇が炎を吐くのんかわからんけど、燃ゆる思いが炎となったんやろか。
昔の人は純粋やったんや。
こんな恋がしたかったような、じゃまくさいような。思ただけでも「あぁしんど」

この話は能楽、歌舞伎、長唄に取り入れられて、道成寺物として大成し、道成寺の鐘は耳に、
ではのうて、心に響く鐘となりました。

数年前まで桂に六斎念仏があって、たいこや鐘だけでのうて芸もあり、道成寺も演じました。

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鐘の中で姫が大蛇に変身するのやけど、衣装を替えて般若の面をかぶるのに長い時間がかかって
「まだかまだか」と客席からヤジが飛んでくるのも又楽しいことでした。

道明寺の鐘は怨念のため音が悪くて、災厄が相次いでおこったさかい捨てられてしもた。
その後、秀吉の根来攻めの大将に拾われ京都の法華経寺院の妙満寺に納められました。

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この妙満寺のある洛北の木野は、昔、御所へ収めてた土器作りの里で、こののびやかな
素朴な土地で鐘は大僧正の読経により怨念は解かれ、美しい霊鐘となったといいます。

腹にいちもつ、背に荷物と、せちがらい世の中に生きている私達。
鐘の音で煩悩を除いてもろて、来年もきばってお餅やお饅頭作りにはげみまひょ。

   かるがると上る目出度し餅の杵 虚子



今年も中村軒をごひいきになり、ありがとうございました。
来る年もどうぞ中村軒をよろしくお願い申し上げます。

ほなこの年も、めでたしめでたし。

第165回 織姫さま

「今年は織姫さんと彦星さんが逢えるやろか」と毎年言うて七夕さんを迎えます。

「今宮さんに織姫社があるえ。行きまひょ」と出かけました。
ご祭神は『栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)』とゆう長いお名前で、栲(たく)は梶の木の
皮の繊維で織った白色の布のことで、古い布のことを栲(たく)とも栲(たえ)ともいうのやそうな。

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古代、木綿がなかった頃、梶の樹皮の繊維を紡いで樹皮布として織っていました。
これは女の人の仕事やった。

そうゆうたら昔おばあちゃんが「和栲(ニキタエ)」「荒栲(アラタエ)」とか「白栲(しろたえ)」
とかゆうてはった。

衣、そして白にかかる枕詞の「白妙(白栲と同じ)」はこれからきた言葉やとあらためて発見!

   春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
                        持統天皇

そやさかい織姫さんの別名は梶の葉姫ともゆうのんやわ。
姫さんは七夕さんのおり姫さんに機織りを教えはった神さんです。

梶の葉は七夕の夜、七枚の梶の木の葉に歌を書いて飾ります。

P1014861.jpg梶の葉蓋・中村軒

   墨ののり よかりし梶の広葉かな 下村梅子

七夕さんのお茶会では梶の葉を水指の蓋として使います。
梶の木は神さんの木ィですわ。

話は変わりますけど、みちのくは私のあこがれの地で、去年は芭蕉さんの奥の細道をたどってきました。

その折、米澤の原始布古代参考館に行き、あらためて古代の人のたくましさ、つつましさに感動しました。
出羽の織座米澤民芸館が出してはる「原始布」という本の中に次のような文章があります。

「古代の人達は、生きていくため自然界より食料として生きるものを奪い、山路に自生している樹皮や
 草皮を剥き、衣服として身にまとい、気候や外傷から命を守り続けていた。
 自然と共に生きる人達にとって、それは自然のいのちを自分のために奪う行為であった。その行為の許しを
 得るためと、古代の人々は常に自然界を神として敬い、日々敬虔な祈りを捧げてきたのである。」

織りは女の仕事。
京都でもみちのくでも、身にまとうものを織るために女性は自然の神々に祈りをささげてきはったんやなあと、
あたたかい気持ちになりました。

又、話は今宮さんに戻りますけど、今宮さんで有名なんはお玉さんで、西陣生まれ今宮さんの氏子やった。
八百屋の娘のお玉さんが、徳川三代将軍家光の側室となって四代将軍綱吉さんを生まはった。
身分の低い女性が高い身分の人と結婚して立身出世することを玉の輿というけどこのお玉さんから出た言葉や
ということです。(その他いろいろな説あり)

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もうひとつ私の好きなんは宗像社です。弁天さんをおまつりしてはるこの社の台石に鯰(なまず)の
彫りものがあります。
鯰は弁天さんのお使いやそうな。
弁天さんのお使いはミィさん(へび)と思ってたけんど、神泉苑の増運弁財天堂の屋根の瓦は鯰瓦
やったわと思いだした。

鯰は五、六月頃産卵するのんで、俳句では夏の季語になってます。

   鯰の子 己が濁りにかくれけり    五十崎古郷

昔々、地震は鯰があばれてるさかいにと信じられてました。
ここでは地震がおこらんようにとお願いしました。

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古代から現代にいたるまで、女の仕事はこまごまと果てなく続いています。
特に現代は女が忙しい時代です。

中村軒では七月に糸巻き・銀河という七夕さんにちなんだお菓子を作ります。
どうぞひととき、忙しさを忘れて中村軒で一服しておくれやす。
心よりお待ち申し上げております。元気が出ること間違いおへん。

ほなこの月も、めでたしめでたし。

第162回 椿の話



   たのしみは 朝起きいでて昨日まで 無かりし花の咲ける見る時
                               橘 曙覧

生命力をたもつ常緑の葉にあっと思うほど鮮やかに咲く椿の花は、字のとおり春の木、
春を告げる花です。



正月の初卯(う)の日の卯杖の祝(うづえのほかい)の杖は椿の枝を用います。

又、福井県の縄文遺跡から出た日本最古の櫛は椿の木から作られたものやそうな。

羽黒山修験の峰入の供花も、そして東大寺のお水取りには400個もの椿の造花が用意される。

話は変わるけど、糀屋さんに糀の話をきいたことがある。
糀は清酒、味噌、、しょうゆを作るときに絶対いるもんやけど、麹菌を繁殖させるのに
使う木灰は椿の灰が最良やということです。

木灰は強いアルカリ性で、ほどんどの有害菌は木灰をかけると死滅してしまうのに
麹菌だけは死なへんそうな。

麹菌が繁殖することを「糀の花が咲く」といいます。灰をまいて桜の花を咲かす
花咲かじいさんは、糀の花が咲くことからお話ができたんかもしれん。

たくさんある椿の中でも、12月頃から咲き始めるのが有楽椿で、別名太郎冠者
(狂言に出てくる召使の役)といいます。
早く咲くのんで、呼び出しの意味から付いた名前らしい。



一方有楽椿という名は、信長の弟の有楽斎(織田長益)が好んだことからつきました。

犬山市の有楽苑にある国宝の茶室、如庵は有楽のクリスチャンネームJohanから
如庵と付いたんです。

この茶室の窓を有楽窓、又は盲蓮子(めくられんじ)といい、視界を遮ることから
付けられました。

何かしら有楽の生涯を連想させるような名やなあ、と思ったりもします。

有楽は本能寺の変の折、二条城にいたのに信長の長男信忠を放って逃げたとか、
淀君の叔父にあたるので大阪方と江戸方の間に立って和睦に勤めたけど豊臣家
から離れたとか、見てきたように話す人がいるけど、有楽椿の霊力で難を
逃れはったんとちゃうか、と私は思てる。



私の好きな椿餅は源氏物語に出てくる古い食べ物で、
「椿の葉を合はせて もちひの粉に甘葛(あまずら)をかけて包みたる物」
と源氏物語の注釈書に書かれてる。



京都には椿の名所がいろいろあるけど、植物園の椿園に行ってきました。
ここは大正13年1月1日に開園した日本で最初の公立植物園です。

園内の半木(なからき)の森には半木神社が祀られています。

古代に賀茂氏族が開墾した土地で、絹織物の生産が盛んで錦部の里と
よばれていました。



今は植物園の守り神として尊敬され、植物園の多くの木や花が実を結ぶことから
試験の合格や恋愛成就のご利益があります。

春の中村軒には花のお饅頭がたくさんあります。
花見だんご、花大福、桜餅、春爛漫。

中村軒の春の和菓子

どうぞおいしいお菓子が作れましように、とお願いしてまいりましたので、
ますます春のおまんじゅうがおいしゅうなること間違いなし。

ほなこの花の月もめでたし、めでたし。

第136回 光悦忌

陰暦の2月3日は本阿弥光悦の忌日です。

光悦は絵画、蒔絵、陶芸、茶の湯など、何でもに秀でた文化人やった。

光悦寺

   流れゆく墨の行方や光悦忌   石寒太

この俳句にあるように、書は寛永の三筆としても有名で、おもしろいお話が伝わっています。
以下は徳力富吉郎先生の随筆からの抜粋です。

 光悦ですな、近衛三藐院(さんみゃくいん)のお屋敷へたずねていかはりましてね、
 そこで 信尹公(三藐院のこと)と光悦とがいろいろと雑談を交わしていたら、
 近衛さんが近ごろ町で今の三筆は、ちゅうことが非常に問題になっている。
 その三筆とゆうのはいったい誰と誰やと信尹公が光悦におたずねになったんですわ。
 そうすると光悦が「まず」というて親指をおさえてやね、「次はあなたでござりましょう」って
 そして三人目は松花堂の昭乗だとお答えしたら信尹公「そのまず、というのんは誰や」って
 「いや、おそれながら」ちゅうて自分を指差したという有名な、実話か作り話か知らんけども
 そういう話が残ってんですね。

光悦は徳川家康から鷹峯(たかがみね)の広大な敷地を与えられて、王朝文化の復興をテーマとした芸術村を作らはった。

光悦垣

光悦が洛西嵯峨の豪商角倉さんの協力を得て行わはった文化活動の一つが古典書籍の出版です。
これまでの文学書はみな写本とゆうて肉筆で写して伝えたけんど、光悦は自分の書で木版印刷する本を計画し実行しはる。

光悦の偉大さはそのお母さんの妙秀さんの感化によるとこが大きいらしい。
妙秀さんの言葉として伝わってるのんは「金銀を宝と好むべからず」
ごもっともごもっとも、と思いつつ、私の日々の生活、現代の世間のありさまはいかがなもんでっしゃろ。

「光悦寺に行こ!」といつものように相棒と出かけることとなりました。

光悦寺

鷹峯はは古うから京見峠を経て丹波へと出る街道で、追剥やらが出る物騒なとこやった。
吉野大夫が寄進しやはったことで有名な赤門のある常照寺など、日蓮宗の寺々がひっそりと建ってます。

鷲ヶ峰、天ヶ峰、鷹ヶ峯をみわたすところに光悦寺がある。
お庭にはいくつかの茶席があって、それぞれに趣が深い事です。

光悦寺

光悦は茶道においても一流義に偏する事なく、古田織部、織田有楽、そして千宗旦と、最も深う交わって
茶道の奥義を極めはったんやて。
光悦はお茶会にどんなお菓子を使ってはったんやろ?

利休によってわび茶が大成された初期の茶会のお菓子は、
栗・柿・昆布・椎茸・あぶり昆布等とものの本に書いたある。

砂糖はまだ高価な輸入品やったさかい、菓子に添えるだけとゆうのんがほとんどやったらしい。
たいてい素朴なもんを使うて茶会の菓子としてはったんやけど、
だんだん亭主手作りのお菓子を用意するようになってきたんやて。

利休の茶会記に出てくるのんが「ふのやき」で小麦粉を水どきして薄うのばして焼き、
山椒味噌、芥子の実を入れてクレープみたいに巻いたもんらしい。

「わざとらしい凝ったお菓子は飽きまっせ」
とおばあちゃんはゆうてはって、子供の頃はふのやきによう似たもんを作ってもろた。
クレープの中はお味噌のときやら、梅干を甘う炊いたときもあった。すっぱいあんずが入ってるのんも美味しかった。
「お菓子で一番おいしいのんは餅にだんご」と口癖のようにゆうたはって、ごちゃごちゃしたもんが嫌いやった。
「利休さんかって素朴なお菓子がお好きやったに決まってる」と見てきたように言わはる。

中村軒のきびの餅

中村軒では最近「きびの餅」というシンプルなお餅を新発売しました。
赤きび粉と砂糖を入れて搗いたお餅にキナコをまぶしただけのシンプルなもんやけど、
これが野趣があっておいしいでっせ。
利休さんや光悦さんがおいでになったら「よし、よし」とよろこんでくれはるやろ。

豊臣秀吉が外敵の来襲にそなえて防塁として築かはった土塁を『お土居』とゆうのんやけど、
東は加茂川、西は紙屋川、南は九条、北は鷹峯と延長23キロメートルにおよびます。

鷹峯のお土居のまぁ前に光悦堂とゆうおまんじゅう屋さんがあります。
お土居餅・光悦垣とゆう銘菓も風情がよろしいなあ。

鷹峯のお土居

   二ン月や光悦垣てふ菓子買ふて   優江

たまにはよそさんの和菓子をいただくのんも楽しみの一つです。

ほなこの月もええとこによせてもらいました。

めでたし、めでたし。

第133回 蓮月尼さん

叔母の家へ行くと中村軒の栗餅が出て、風雅な抹茶茶わんでお茶をたててくれはった。

中村軒の栗餅

栗餅はお餅とこしあんのバランスが絶妙で、何でもおいしい中村軒のお饅頭の中でも私は一番好きかもしれん。
お抹茶茶碗は品がようて口あたりがかろやかやわぁ。

  山がらす ねぐらしめたる わかやどの
    軒端の松に 嵐ふくらむ 八十四 蓮月

と抹茶茶碗に書いたある。

「このお茶碗なあ、嫁入り道具にもたしてもろたんや。蓮月さんのんえ。
蓮月さんはは、ご主人にも子供さんにもはよう死に別れはって、ご出家しやはってから生活のために陶器を作らはって、
陶器にはかならず自分の和歌を彫りこまはったんや。そしたらたちまち評判とならはった」

蓮月さん 中村軒蓮月さん 中村軒

蓮月さんで私が知ってるのんは、歴史の先生がゆうたはった

  あだみかた 勝つも負るも哀れなり
    同じ御国の 人とおもへば

と詠まはった短冊を西郷さんに渡さはって、これが江戸城の無血明け渡しに大きな力になったという話です。

富岡鉄斎は子供の頃から蓮月尼に可愛いがられた人で、ちょっと絵が売れ出した鉄斎に
「金は家に残らぬがよい 入るだけ出るのがめでたい」と書き送ったはる。

私の喜びそうなことやけど、そのあとが私とはちごて、陶器で稼がはった蓄財はほとんど喜捨にあてはったんやて。

そんな教えを受けたはった鉄斎やさかい、白幽子の石碑を自費で立てたりしたはる。
蓮月尼は1年に13回も引越しをして、晩年には西賀茂の神光院に隠棲しやはった。

神光院 蓮月尼神光院 蓮月尼

土間に窯を築いて歌と陶器作り、信仰にと独自の道をひらかはった。

  塵ばかり 心にかける 雲もなし
    今日を限りの 夕暮の空

と詠じて85才の生涯を閉じはった。
蓮月忌は11月10日に営まれるそうな。

神光院におまいりしとうなった。
「蓮月尼隠棲茶所が残ってるらしいえ」と出かけることとなりました。

神光院のある西賀茂は、昔は栗栖郷とよんで、広い野原やった。
日本で稲作をするようになってからも、主食の米が不足する時代が長いこと続いたさかい、これを補う代用食として
持統女帝が699年に「全国に栗の木を植えよし」と言わはった。
その栗の木を植えはった村が今も栗栖とゆう地名となっています。

西賀茂の栗栖郷は良質の粘土が出たとこです。西賀茂瓦窯址は神光院の西南にあって、平安京造営のときの瓦を焼いた
『瓦屋』と伝わってます。瓦屋とゆうのんは国の瓦を焼くところです。
近くの大将軍神社は瓦屋の鎮守の社やったそうな。

瓦屋 大将軍神社瓦屋 大将軍神社

神光院はもとは瓦職人の宿坊にもなったところと伝えられてます。
その後弘法大師がここで修行しやはって、弘法大師42才の自作とされる大師像は厄除け大師の名で親しまれていて、
東寺・仁和寺と共に京都三弘法の一つとして知られています。

神光院

神光院門内左手に蓮月さんの棲んだはったところがある。
土間に窯があったらしい。
ここで風雅な焼物を作ってはったんやと思うと胸がいっぱいになってきました。

  山里は 松の声のみ きヽなれて
  風ふかぬ日は 淋しかりけり   蓮月

次々と身にふりかかってくる不幸の苦しみの中から立ちあがり、勤王歌人として陶工として、
又私財で鴨川に丸太町橋を架けたりもしたはる。

蓮月さん 中村軒

ささいなことで怒ったり悲しんだりしてる私が恥ずかしい。
せめては毎日おいしいお餅、お饅頭を作ることに精を出しまひょ。

神光院さんで「不思議大日の色紙」を受けてきました。願い事は必ずきいて下さるという色紙です。

これでますます美味しいお餅、お饅頭ができること間違いおへん。

ほなこの月も、めでたしめでたし。

第129回 苔の庭

一年中で一番暑い七月。
それでも中頃までは梅雨の最中やさかい、かんかん照りの日は少ない。

京都の梅雨明けはだいたい7月17日頃になる。
一年中で一番雨の降りやすい日ィは記録によると7月2日やそうです。

この日ィは中村軒の創業者の芳松さんのご命日で和尚さんがおまいりに来てくれはるけんど雨の日が多い。

「梅雨明け10日ゆうてな、梅雨があけたらあとはお天気が続くさかい、梅の実を 天日干しにするのんえ。
 ちょうど土用のころになるさかい土用干しゆうのんや」と毎年のようにおばあちゃんはゆうたはった。

京都人はうっとうしい梅雨も楽しみをみつけます。
この頃は特に庭の苔がしっとりときれいです。

苔の一番きれいなとこはどこやろ。
福井県勝山の平泉寺はそれはそれは素晴らしいけんど、京都では大徳寺の高桐院のお庭が私は好きです。

高桐院

門をくぐって入口までの細い道が昨夜の雨に濡れ、まわりを被う苔と頭上の楓の緑に梅雨時のやわらかな日が
さしてくると、なんとも心が静まります。

高桐院

高桐院は細川忠興が父幽斎の菩提寺として建てはった。
書院は千利休の邸宅を移さはったもんで、二人の深い師弟関係が偲ばれます。

秀吉の怒りにふれた利休は淀の渡しから船に乗って堺へと淀川を下らはる。
利休の大勢の弟子の中で見送りに来やはったんは古田織部と細川忠興のみやったそうな。

高桐院にある石灯籠には有名な話があります。

天下一といわれてるその石灯篭を秀吉が利休に「わしにくれ!」と言わはったんを
利休はわざと笠の一部を砕き、疵物にして「こんな疵物を殿下には差し上げられまへん」と断る口実にしやはったそうな。

この石灯籠は利休の死の折にあらためて忠興に贈られました。
銘を無双といい、又欠燈籠ともいいます。

忠興はこの石灯籠を大事にしやはって、移封のたんびに屋敷に移さはった。
それだけではのうて、参勤交代のときも運ばせて宿の庭に置いて灯りを点し、利休を偲ばはったということです。

トラックもない時代に大変やったやろ。
ご家来衆は「ええかげんにしとうくりやす」と言いたかったに違いおへん。

高桐院石灯籠

忠興と夫人のガラシャさんの墓石はこの石灯籠を墓石としてはる。
そんなけ好きな物がある人って幸せやなあ、としみじみと石灯籠を拝む。

苔が疲れた目に優しい。

ガラシャさん、えらいめにあわはりましたなあ・・・
ダンナさんは利休さん
あんたはんはキリストさん
心の支えとなる方がいやはったんはお幸せかもしれん・・・

仏教徒の忠興さんとキリスト信者のガラシャさんが一緒にいやはる石灯籠を拝むときはナムアミダブツとは
拝まへんのやろか・・・と迷いながら頭を下げる。

茶人である以上に戦国大名として乱世を生きてきやはった忠興さんは、茶道が心の安らぎの場やったんやろ。
高桐院の茶室、松向軒の黒壁は瞑想の場にふさわしい。

高桐院松向軒

利休の死後に茶の湯の心得として書かれた『南方録』という茶道書に、
利休の言葉として次のようなことが記されている。

「茶湯で心が極まるのは草の小座敷に勝るものはないが、
 小座敷の茶湯は第一に仏法を以って修行し道を会得する事で
 住まいを立派にしたり珍味を楽しむなどということは俗世の事だとし
 家は雨のもらぬほど、食事は飢えぬほどにて足ることなり。
 是仏の教 茶湯の本意也」

そら秀吉とはちゃうわなあ。
秀吉は頭では理解してはっても、ああきゅうくつはきらい、派手キンキラキンが好き。
利休の好きな黒茶碗は嫌い!陰気臭い。

だんだん心がはなれてきやはったんやろな。
これは理屈とはちゃうんやろ。

中村軒には、りきゅう饅頭という素朴なお饅頭があります。(利休忌の2月に販売する予定)
全国菓子博覧会で「茶道お家元賞」をもらいました。

中村軒のりきゅう饅頭

小麦粉の皮に黒砂糖がはいってて、粒あんを包んだお饅頭ですが、利休がこの色を好んだという説や、
黒砂糖の産地の琉球(りゅうきゅう)から付いた名やとか、いろいろの説がありますが、中村軒の場合は
桂離宮も兼ねて付けさせてもらいました。

創業以来作っているかつら饅頭とりきゅう饅頭を並べるとかつらりきゅうです。
これには利休さんも「何でもかんでも名物にしよる」と笑うたはるやろか。

中村軒の狭庭も今苔があおあおしています。
どうぞおいしいお菓子でお茶を一服おあがりやす。

戦国のような現代のせせこましさが一刻離れられまっせ。

ほなこの月もめでたしめでたし


第126回 おくどさんの神さん

   夕桜 神楽を舞ひし人帰る   斉木直治

昔は桜の咲具合で豊作を占うたり、桜の開花で農作業の時期を決めたりと、
日本人と桜の花は深いかかわりがありました。

平安貴族の間では、桜の木の下で宴(うたげ)をしやはったらしいけど、
庶民がお花見にでかけるのんは江戸時代になってからやとゆうことで、
「花より団子」という言葉も元禄時代になってから言われたそうな。

中村軒の花見だんご

偉い先生にきくと、日本人が団子を食べ始めたんは縄文時代からやとゆうたはる。

椚(クヌギ)や楢(ナラ)の実、いわゆるどんぐりはアクが強いさかい、
粉にして水にさらしてから糊状の粥にしたり、お団子にして食べたらしい。
このころは団子とはゆわんと「しとぎ」と呼ばれてたんやて。

なんで団子とゆうようになったんかとゆうと、奈良時代に日本へ渡ってきた唐菓子の
歓喜団(かんきだん:団子状のもので歓喜天へお供えとして使われる)からついたという説や、
団は集めるとゆう意味があるさかい、粉を集めて作るんで団粉になったという説等、いろいろとあります。

東海道中膝栗毛(十辺舎一九)には「江戸では団子のことを『いしいし』という」と出てくるけんど、
これは『美(い)し』を重ねた語で、おいしいという意味です。

「花見だんごを持ってお花見に行きたいなあ。京都には桜の名所がいっぱいあるけんど、
 どこへいこかしらん」と言うと、
「平野神社へ行きまひょ。ここは400本の桜の木があって、それぞれに咲く時期が違うのんで
 1ヵ月にわたって桜を楽しめまっせ。だいいちにここは「久度神」ゆうおくどさんの神さんを
 おまつりしたはる。中村軒はおくどさんで餡を炊いてるさかい、おまいりしてこんとあきまへん」
と相棒に言われていつものように出かけることとなりました。

平野神社

平野神社はもともと奈良の平城宮の田村後宮とゆう皇后様の御殿の中にあったそうな。
桓武天皇さんが都を京都に移さはったときに一緒に移ってきやはった。

京都の神社の中でも遷都と一緒に神社ごと移ってきやはったんは
ここ平野神社だけやそうです。

平野神社

このあたりは応仁の乱で西軍が陣をおかはったさかい西陣の名があります。
又、西軍の指揮をとらはったんが山名宗全で、今も山名町とゆう町名が残っています。

もっともっと昔、古代には百済系氏族の錦郡(にしきごうり)氏が開かはった土地で、
この一族は染織の技術がすばらしかったんやて。

平安京が造営されて大内裏の内蔵寮・縫殿寮・糸所にはいらはったんは錦郡氏のご子孫やった。
西陣織はこのご子孫が同業団体を組織しやはって始まったとゆわれてます。

後に耶蘇会のフロイスが「日本で用いられる絹物はほとんど西陣で製造される」と報告したはる。

錦郡氏は今木氏と呼ばれていました。

平野神社では、
今木の神・久度(くど)大神・古開(ふるあき)神・比賣(ひめ)神の四柱の神さんをおまつりしてはる。
久度の神がおくどさんの神さんです。

平野神社

古代日本では家の中央に炉があって、これで煮炊していたらしい。
おくどさん(かまど)は煙突をつけて煙を屋外に出させます。
このようなおくどさんは朝鮮半島から伝わったもんやそうな。

古代には家を一戸二戸と数えるとき、一烟(えん)二烟と、カマドを単位として呼ばれていて、
カマドは重要やったことがわかります。

どうぞどうぞ、おいしい餡が炊けます様にと、久度の神さんにお願いいたしました。

中村軒のおくどさん

境内に磁気を含んだ石があって、この石にお守りさんを近づけるとピッタリとくっつきます。
お守りさんに神さんのお力をいただいてきましたんで、
ますますおいしい餡が炊ける事まちがいおへんな。
ありがたいことです。

ほなこの月も、めでたしめでたし。


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