第215回 岩倉散歩

9月になるといっぺんに秋らしいお饅頭が店頭に並ぶ。
菊のお菓子、栗餅、そしてお待ちかねの栗赤飯。
暑い夏を乗り切って今年の栗は甘い。


仕事も忙しいけんど、どっかへ行きとうなる秋です。

 

   水澄むや神々の代の杉の根に  島谷征良

 

今回は京の北の方へ行ってみたい。
テレビの『西郷どん』の岩倉はんの幽棲地を訪ねることにしました。

 

平安京遷都のとき、桓武天皇は怨霊の侵入を防ぐため京の東西南北に
ある4つの岩倉に一切経うぃ埋めて平安京を守ろうとしやはった。

 

この4つは
北 山住神社(岩倉)
東 観勝寺(東岩倉山)
南 金蔵寺(西岩倉山)
北 明王院不動寺(松原麩屋町)

とされているけんど他の説もあって確かやない。

 

そやけど岩倉という地名でしかも駅の名前になってるのんはここだけです。


岩倉川の西にある山住神社は旧石座神社の鎮座地で自然石を御神体とし古代磐座(いわくら)の

原型といわれています。山住の名は山の神を意味する山祇(やまつみ)に由来する。

 

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古代人は自然の大岩を神さんやと、又は神さんがおりてきやはる場所としてお祀りし、

心の拠り所にしたはったに違いおへん。


何をお祈りしてはったんやろ。
まずは災害がないようにとゆうことでっしゃろな。

私もこれ以上大雨・地震がないようにお願いしました。
そして美味しいお米がとれて、美味しいお餅が搗けますように…と
お祈りしてすっとしたとこで実相院に向かいます。

 

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実相院門跡の札をかけたある門は堂々と立派です。

客殿の各室には狩野一派の障壁画がある。
そして有名な床みどりが見事にすがすがしい。

 

寺宝は後水尾天皇の御宸翰(しんかん)「忍」があるそうな。(年に一回公開)

 

   病葉(わくらば)や御宸翰にて忍一字  山田孝子

 

徳川幕府に不満を持ったはった天皇さんは

「武士の世になってしもた。もう天皇の世にはならへん。徳川に牛耳られてしもた今では忍しかない」

と思わはったんやろ。

 

あきらめたらあきまへんえ後水尾さん、時代は下って幕末にこの地岩倉で岩倉具視が公武合体を説いて

王政復古が成功するのんや!

 

実相院を出ると具視幽棲旧宅があります。

 

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ここでは時間を決めて案内があります。

テレビとちごて「西郷さんはここへは来てはらへんのんです。」

そして賭博を開いたはったんはここではのうて京都市内にあった公家屋敷やそうな。

賭博がご法度の時代、寺院や公家屋敷など官憲の力の及ばんとこでしたはった。

 

ここに対岳文庫があります。
対岳ゆうのんは具視はんの雅号で岳は比叡山、その向かいに住んでるという意味です。

 

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ケースに玉松操と会うたはる絵が展示してある。
この人の話は司馬遼太郎の『加茂の水』にくわしいけど、文章が苦手やった具視にかわり密書を書き
「錦旗を薩長の軍に樹(た)てよ必ず勝つ」と西陣織の帯地で作った錦旗を作る案を出さはったんやて。

 

こうして王政復古は成り後水尾はんも忍んだかいがありました。

 

策士でやもりとあだ名された具視はんやけど、私はエエ人やと思てます。

東京遷都以降、嵐山が荒れてるのを嘆いて嵐山桜楓会を発足して桜や楓の苗木を寄付しやはった。

 

嵐山の紅葉を楽しめるのんは具視はんのおかげでもあります。

この秋は栗餅を持って嵐山へ紅葉狩りに行くことにしまひょ。

 

ほなこの月もめでたし、めでたし。


第192回 修学院離宮

先月桂離宮を拝観したら修学院離宮へも行ってみとうなりました。
修学院離宮は桂離宮の美しさとは又違う雄大な展望の大自然の中の離宮です。

 

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造営しやはったんは後水尾天皇で豊臣から徳川への変転の中、徳川政権のもとで即位しやはった最初の天皇さんです。

信長、秀吉は朝廷を大事にしやはったけど、後水尾さんの時代は武家政治が充実し、その即位は徳川幕府による

朝廷支配の第一歩やった。

 

「武士なんか昔は公家の従者で番犬みたいなもんでおじゃったのに、頼朝が幕府を開いてから

 だんだん公家を支配する世の中になってしもた。

 『葦原や しげればしげれおのがまま とても道ある世とは思はず』」と後水尾天皇さんは歌を詠んで憂さ晴らし。

 

そんなとき家康は朝廷と公家の統制を強化しようと二代将軍の娘和子を後水尾天皇に嫁がせはった。

和子さんは残っている絵から見るとお雛さんのように愛らしい方やさかい後水尾さんとは仲良うしてはった

そうやけど、それとは別に後水尾さんは幕府に対する憤りは一生変わらへんかったんやて。

 

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奥方である中宮和子さんはこのような天皇の苦しみ、怒りの出所が自分の父・兄であることがどんなに辛かったやろ。

 

いろいろあった後、後水尾さんは退位しやはって修学院離宮の造営に打ち込まはった。
もちろんその費用は和子さん(後水尾天皇退位後は東福門院)が徳川家に財政支援を頼まはった。

おかげで私達はこの広大な離宮をみせていただけます。

 

修学院離宮で興味のあるのんは「梅の宮」さんの事です。
この方はおよつ御令人という方と後水尾天皇さんの間に生まれはった方で、22才で出家しやはった後、

修学院の庵に住んだはった。後水尾さんも行幸し修学院を作らはる前提なりました。

 

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その後梅の宮さんは大和の山村へこもらはる。
これが華道山村御流の家元でもある円照寺です。

 

継母でもある東福門院の助力で幕府から200石(のちに300石に加増)の寄進を得て建てられました。

山村御流は「花は野にあるように」をテーマとして素朴にあるがままの姿を活ける流派です。

 

私はこの華道が習いたかった。
「習いにいかんでもマサコ派ゆうのんを立ち上げたらよろしい」とうちのダンナにゆわれてしもた。

修学院の下の茶屋、中の茶屋、上の茶屋へたどる道を東福門院さん、梅の宮さんのことなど思いながら歩いた。

 

天皇さんは皇子、皇女の数は夭折された方まで入れると26人にも及ぶそうです。

 

「東福門院さんは皆々さんに心遣いをされてご自分の養子にしやはったり、徳川家へ寄進を頼まれたりと

 朝廷と幕府の間の和をはからはったんえ。よっぽどの徳を持ったはったに違いないわ。
 梅の宮さんとも仲良かったそうな。」

とおバアちゃんは見たきたようにゆわはる。

 

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戦乱時代をのりこえやっと平和をもたらしたんは江戸幕府やった。
東福門院さんは朝廷と幕府の間をとりもち、日本は300年近い平和を保つことが出来ました。

 

朝廷の長い間の武士への恨みがはらされたのは幕末になってからです。


こんどは朝廷から幕府へ平和のために行かれた方が皇女「和宮」です。
このお二人が平和の「和」というお名前やというのも不思議な事と思うのです。

 

夢のような茶屋とお庭をみせてもろて晩ごはんを買うてかえろと眦膕阿亡鵑蠅泙靴拭
そしたらはからずもなんと7階グランドホールで「大和円照寺いけ花展」をしてはるやないの。

 

梅の宮さん、後の文智女王が開かはったお寺や。
あまりのタイミングのよさにこれは梅の宮さんのおひきあわせやと思った。

 

あこがれのいけ花をうっとり見せていただきました。

今日もけっこうな一日を過ごさせてもろた。


なんちゅうても平和が一番。

 

ほな今月もめでたし、めでたし。


第164回 伊勢物語

「身辺の整理するわ」と言い出した叔母より古典文学全集をもらい受け、伊勢物語を読んでます。
昔読んだ頃はさほど思わへんかったのにエライおもしろいのんです。

田辺聖子さんが「文車日記」で伊勢物語は「恋の見本帳」とゆうてはるように、美男で歌人の在原業平はんの
恋の話がさまざまに綴ったある。

私はことに十三段の武蔵鐙(むさしあぶみ)が気に入ってます。

昔、武蔵なる男 京なる女のもとに
聞こゆれば恥づかし 聞こえねば苦し と書きて
うはがきに むさしあぶみ と書きておこせし

男が「愛人が出来たことをしらせるのんも恥ずかしいけど、言わへんのも苦しい」
と京の奥さんのもとに手紙を送らはった。

   武蔵鐙さすがにかけて頼むには
   問はぬもつらし 問ふもうるさし

京の奥さんはこんな返事をしやはった。

「お手紙の表書に武蔵鐙と書いたあるけど、馬に乗る時、鐙(あぶみ)が左右両方にかかっているように、
 私と外の人にも両方かけてるやなんて。便りのないのんも情ないけど、便りに浮気話をきかされる
 のんもうっとうしくて煩わしい。」

ややこしいけど、ここがおもしろいとこでっせ。
「鐙」馬具の一種で鞍から左右一対を下げて足をのせる。
「刺鉄(さすが)」鐙を留める金具のことで、鐙は武蔵の国で作られていたそうな。
 鐙といえば踏む…転じて文(ふみ)、鐙に付いてる刺鉄から、むさしあぶみ(文)と書かれていると
「さすが」という言葉をもってくるのんが昔の短歌のながれやったそうな。

こんな手紙もろても教養がないと返事がかけまへん。

のちの世に利休はんが織部はんに送らはった武蔵鐙の文という有名な文がある。

   むさしあふみ さすがに道の遠ければ とはぬもゆかし とふもうれしし

利休はんも伊勢物語が好きやったんにちがいおへん。
そんな折に、俳句の仲間が「今度の吟行は三河八橋へかきつばたを見に行こ」とお誘いが来ました。

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三河八橋は伊勢物語九段東下りのところです。
『かきつばた』という五文字を句の上にすえて旅の心を詠めと言われて業平はんが詠まはった歌が

   か らごろも
   き つつなれにし
   つ ましあれば
   は るばるきぬる
   た びをしそ思ほゆ

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知立市のかきつばた園には見事なかきつばたが咲きそろうてる。
園の一角に八ツ橋伝説の立て札がある。

それによると、夫に死別して二人の幼子を育てる母親がおり、川の向こうで働いていたところ、
母恋しさに川を渡ろうとした子供達は水に落ちてしんでしまった。
母親は悲しみ尼になって菩提を弔ったが、「橋さえあれば死ぬことはなかったのに」と思わぬ日は
ありませんでした。
後に夢のおつげで入江に流れ着いた材木を使い、村人の力により入江に橋を八つかけ、この村を
八ツ橋と名づけたという。

ふとみると茶屋で『八つ橋』を売ってはる。
「あれ、これは京都の西尾さんの八ツ橋やわ」と言うと茶店の人いわく、

「八ツ橋伝説に感動しやはった西尾さんの先祖さんが元禄2年(1689年)この話をより多くの人に知って
 もらいたいと橋の形をしたお菓子を作り、それが現在のお菓子の八ツ橋なんです。」

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それ以来八ツ橋は京名物となって時代が移っても愛され続けるお菓子となっています。

創業は易く守成は難しという諺があるけんど、ずっと続けていくとゆうのんは難しい事です。
中村軒は今年131年めになりますけど、もっともっとお客様に喜んで頂けるお菓子を作り続けたいと
あらためて思ったことです。

「むかしをとこありけり」というおしゃれな書き出しで始まる伊勢物語。
プレイボーイの業平はんとおもいきや、実は誠実な心豊かな「をとこ」であることが読み重ねていくと
感じられます。

何時の世も心あたたかく、誠実に仕事をすることが続けていける秘訣かもしれません。
いろんなお話をきけて旅は楽しいですな。

「問ふもうれしし」です。

ほなこの月も、めでたしめでたし。

第158回 明治維新と京の菓子

「黒谷さんの山門を153年ぶりに修復しやはった記念に、山門楼内が特別に見せてもらえるそうえ。
紅葉もええ頃や、行こ行こ」と出かけることとなりました。

その昔、徳川家康は事ある時には軍隊を置けるように、黒谷さんと知恩院さんはお城構の造りにしやはった。



一挙に大軍が押し寄せてこられんように、南には小門しかのうて、西側には高麗門が城門のように
大きく建てられてる。

高いとこにあるさかい、自然の要塞になってて、山門楼上から淀川あたりまで見渡せる。
山内の茶席から淀川の帆船が見えたんで「淀看(よどみ)の茶席」と名前が付いたそうな。
お天気がええ日ィは大阪まで見えたという。



幕末の京都の治安のため会津藩が京都守護職に任命されて黒谷さんに京都守護職本陣がおかれたんで、
この山門楼上から松平容保はんや近藤勇はんが京の町を見おろしたはったんにちがいおへん。

黒谷さんの墓地には会津藩殉難者の墓地があって、お参りしてまいりました。

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この方達があって今日の日本の平和があるのやと、しみじみとした思いで胸がいっぱいになりました。

大河ドラマの八重さんの波瀾の生涯をテレビで見続けていますが、ダンナさんの新島襄の死後、
死別した淋しさをまぎらわすため裏千家円能斎へ入門しやはって『宗竹』の茶名をもらわはった。

宗竹の号は襄を失くした悲しみの中で詠まはった

   たのみつる 竹は 深雪に埋もれて
   世のうきふしを たれとかたらん

からつけられた。
八重さんはどんなお菓子がお好みやったんやろ。
菓子器は故郷の会津産うるし鉢を使わはったときいてます。

この頃の京都は天皇さんが東京へいかはって、都が東京となったさかいお公家さんやら有力な商工業者が
京都を離れはったんで、京都全体が活気を失のうてた。

菓子屋も例外ではありまへん。
将軍家の御用を勤めてはったとこの多くは廃業しやはったし、皇室の御用をつとめたはった商人は
お得意さんが東京へ行ってしまわはったんでエライ事になってしもた。

虎屋さんは東京へ移らはって松屋常盤さん、川端道喜さんは京都へ残らはった。

又、文明開化と共にバターやクリームを使うたお菓子が人気をよんで、この時期から洋菓子・和菓子と
呼ぶようになったそうな。

京都人は新しいもん好きやさかい、洋菓子に走らはるのとちゃうかという不安もあったけど、
「私ら千年の都で先祖代々商いさしてもろたんや。 洋菓子・パン・東京にも負けしまへん!」
と饅頭屋さんは明治16年に10名ほどで京都餅団子商組合を作って勉強に励まはった。

どんどん会員は増え、現在は京都府生菓子協同組合へと至っています。
日本人の風習と生活に密着したお饅頭やお餅・お赤飯を作り、京のおまん屋はん、餅屋はんと親しまれています。

中村軒

時代の移りかわりの折も人生の節目にも、茶道やお菓子が人々の気持ちをやわらげ、活力をも
つけていったんにちがいありまへん。

平和とはいえ日本中が走っているような今日ひとときのお茶の時間をもって季節のお饅頭を召し上がっておくれやす。

12月は柚子の薯蕷がおいしい。たき火と名づけた芋あんの薯蕷もたのしい。
あつあつのおぜんざいで心もあたたこうなりまっせ。

中村軒の善哉

どうぞどうぞ中村軒でお待ち申し上げております。
今年もご贔屓をいただいてありがとうございました。

来る年も中村軒をよろしくお願い申し上げます。
ほなこの年も、めでたしめでたし。


第140回 しそ餅

以前は毎年梅干を漬けてました。

家康が家来の米津さんに「おまえの顔は梅干に似てるゆえ梅干之助(ほやのすけ)と名乗れ」と
ゆわはったんで、米津さんは代々「梅干之助」と名乗ったという話をオバアちゃんは毎年繰返して「オホホ」と笑わはる。

昔は梅干は「ほや」と呼んだそうな。
海のホヤに似たると古い本に書いてあるそうやけど、似てるとも思わへん。

梅干を漬ける紫蘇も平安時代には以奴衣(いぬえ)、乃良衣(のらえ)とゆうたんやて。
紫蘇は中国原産で10世紀ごろ薬用食物として伝えられ、宮中へおさめる野菜の一つと数えられました。

太原の紫蘇

紫は高貴な色やさかい、いぬえ・のらえという言葉はすたれてしもたにちがいおへん。

中村軒ではこしあんのはいった道明寺をしその葉で包んだ『しそ餅』が人気です。
蒸し暑い六月、ちょっとひやして食べるとスーッと汗がひいてきます。

中村軒で使うてるしそは青森産やけど、京都で有名な産地は八瀬大原で、ここの紫蘇はほとんど
しば漬けに使わはるそうな。

太原の紫蘇

大原の里は平安時代に朝廷の牧が置かれてて、薪炭の産地として有名やった。

頭上に薪をのせて「黒木召せ」と街に売り歩かはった大原女の起源については、建礼門院に
従うて大原に住んだ阿波内侍(あわのないし)らが生計の足しにするため、薪を京の町へ売りに
行った風俗を里人がまねたといわれています。

平家が壇ノ浦で滅んでから建礼門院はこの境内に庵をむすび、一族の菩提を祈念して余生を
過ごさはった。

寂光院

平家物語で私が一番腹が立つのんは、後白河法皇がお忍びで大原の里へきやはった事です。

 法皇「人やある人やある」と召されけれども おんいらへ申す者もなし
 はるかかにあって老いたる尼一人参りたり
 「女院はいづくへ 御幸なりぬるぞ」と仰せければ
 「この上の山へ花摘みにいらせ給ひてさぶらふ」と申す。
 「さようの事につかへ奉るべき人もなきにや さこそ世を捨つる御身といひながら 御いたはしうこそ」
 と仰せければ...後略

何が御いたはしうこそ、や!
清盛の死後平家を裏切り、義仲を追い、数々の人を棄て、建礼門院さんをこんなめにあわせたんは
みんなアンタのしたことやないの。
「こんな女に誰がした」と私やったらくってかかると思うのに、そんな話は伝わってない。

あの地獄の中をくぐりぬけて建礼門院さんはとりみだしもせんと法皇に逢うことができたんか不思議やわ。
「無関心と無感覚、激動の中で女院を支えてきたものは実にこの二つだった」と『寂光院残照』という
本で永井路子さんは書いたはる。ゴモットモゴモットモ。

寂光院

しんみりと平家をしのぶにはなおあまりある観光客で建礼門院さんをお守りしやはった侍女のお墓へ
いくことにしました。

寂光院門前を過ぎて谷川を渡った山中に侍女たちの墓が寄り添って並んでます。
墓は四基あって
大納言典侍(だいなごんのすけ)、阿波内侍(あわのないし)、右京太夫、治部卿の局と伝えられています。
この四人のうち最後まで女院に仕えはったんは阿波内侍と大納言典侍の2人やった。

寂光院

「あれ!阿波内侍て信西の娘はんやわ」と相棒が声をあげる。
「そうどすがな、大河ドラマ清盛で信西は阿部サダヲさんがやったはる。
 右京大夫は後鳥羽天皇へ再就職。治部卿の局も上西門院へ就職。
 よそで働いて仕送りしやはったんやろか」と世俗的な話がはずんでます。

「何しに今さら法皇さんがきやはったんやろ」
「寂光院に荘園を二つ寄進しようとゆわはったそうえ」

この御幸のお供は徳大寺実定(とくだいじさねさだ)、花山院兼雅…
「あ!その徳大寺さんは百人一首にある人やわ!」
「あたり!」

   ほととぎす 鳴きつる方をながむれば ただ有明の月ぞ残れる

百人一首八十一番の後徳大寺左大臣どす。
この人は藤原定家のいとこはんで、寂光院より帰る折、

   いにしへは 月にたとへし君なれど その光なき 深山辺の里

と庵の柱に書き入れ平家物語にでてくるけど、もっと建礼門院さんを励ます歌を作れへんのんかいな。

   ほととぎす 鳴きつる方にあきれたる 後徳大寺の有明の顔

こう狂歌作家の大田蜀山人が読んだはる。

話がもどるけど、建礼門院さんが無関心と無感覚という話はひょっとしたらここら名産のしば漬けを
毎日食べたはったんちゃうか、と思いつきました。

昔食中毒で死にかけた人に名医が紫の薬を作らはって、病人に与えるとたちまち元気にならはった。
紫の蘇る薬ということから紫蘇と名が付いたらしい。

気力が停滞してる状態を改善、精神を安定する効果があるゆうことや。
きっとしそジュースとか飲んではったさかい平常心でいられたんかもしれん。

私も出家して静かなとこで過ごしてみたいなあ…
「アンタはあきまへんデ。出家してもお寺でしそ餅売ったり、しそジュースをふるまったり、
 あげくのはてに熱々ごはんにしそのふりかけのご飯を出したりして忙しいなるのんが目に見えるようや」
と相棒に言われてしもた。

中村軒のしそ餅

それでは出家をあきらめて中村軒にて今までどおり美味しいしそ餅を作ることといたします。
どうぞ皆様中村軒にてお待ち申し上げております。

ほなこの月も、めでたしめでたし。


第131回 虫八幡

9月15日は高野の三宅八幡さんのお祭です。

子供の頃、私は疳(かん)が強うて夜中にキイキイゆうたらしい。

おばあちゃんは「三宅八幡さんは虫八幡ともゆうて、疳虫封じの神さんや」と毎月私を連れて
お詣りしてくれはった。

三宅八幡

この高野あたりは古来小野里(おののさと)と呼ばれていました。
源氏物語の中では柏木(頭中将の長子、衛門督)の死後、夫人の落葉の宮が隠棲しやはったとこです。

夕霧の巻に
「御息所物怪にいたう煩ひ給ひて小野と言うわたり(あたり)に山里持給へるに渡り給へり」とある。

「里遠み小野の篠原分けて来し 我もしかこそ声も惜しまね」とは
小野の里に落葉の宮を訪ねる夕霧(源氏の息子)の歌です。

町中を離れてここまで来ると凉しさがちごうてくる。
秋の気配もはやい。
比叡山のお山もほん近うて月に1回おまいりさしてもらうと気持ちが落ち着いてくるのんに
まちがいおへん。

三宅八幡

虫八幡さんはその昔遣隋使の小野妹子はんが九州で病気にならはったとき、宇佐八幡さんへ
お祈りしやはって全快しやはったばかりか、隋へ渡らはってからも難から逃れはったんで、
日本へ帰ったのち、ここに宇佐の神さんを勧請しやはった。

はじめは田の虫除けの神さんやったけど、子供の疳虫除けの神さんへと信仰がかわっていたんで、
子連れの参詣者に茶店の鳩餅が土産に喜ばれました。

鳩餅は団子のもとになるしんこを八幡さんのお使いの鳩の形に作ったある。

三宅八幡

江戸中期の辞典「和漢三才図会」のだんごの項に、真鎬(しんこう)、粳(うるち)の粉(米の粉)をこね、山稜の形(三角形)にし、ねじって縄股のようにして蒸す、俗に之牟古(しんこ)という、と出ている。

愛宕山の名物にも志んこがある。

中村軒でも20年程前まで夏にはしんこを作っていました。
ニッキと白と抹茶があって、今は三色団子として売ってます。
ニッキが嫌いなお子が多くて、ニッキが黒蜜に変えてます。

中村軒の三色だんご

虫八幡さんは幕末から明治末にかけて奉納された大絵馬がたんとあって133枚が有形民俗文化財と
なってます。
たんとの子供が親に連れられておまいりしているようすが描かれている絵馬(行列絵馬という)を
よう見ると参詣するひとりひとりのところに名前が付箋で書かれています。こんな珍しい絵馬を
初めて見ました。
※境内の絵馬展示資料館で見ることができます。

奈良時代には神さんの乗り物として馬を奉納してたけんど、馬の世話をするのんも大変やと
いう事で、平安時代になると板に馬の絵を描いて納めるようになったんが絵馬の始まりらしい。

江戸時代になると家内安全・商売繁盛といったお願いを馬の絵の代わりに書くようになりました。

眼病予防には「め」、夫の浮気防止には「心」の字を書いて奉納します。

一番ポピュラーなのは合格祈願の絵馬ですなあ。

神さんのご加護を願うて、すがすがしい山すそを親に手をひかれて鳩のしんこを買うてもらうと疳虫の一番の治療やったにちがいおへん。

俳人の山下喜子先生が、季まひまひという京都の歳時記の虫八幡の項に

「鳩を吹くという季語も思い出した。
 両手を合掌の形にして鳩笛を吹く
 端然とした老人、鳩の群れ、子供たち
 ひとときこれ以上平和な風景はあるまい
 空は悠久」

と書かれている。

鳩吹という秋の季語は鹿狩などで狩人が鹿を発見したときに両手を合せて指を組み、笛のようにして
吹き鳴らし、他の人に鹿がいることを知らせました。

三宅八幡

現代の子供達にもこんな美しい言葉があることを伝えたいと鳩餅を食べながら思う秋です。

ほなこの月もめでたしめでたし


第125回 おひなさん(曼殊院)

子供の頃、夜にお雛さんの前を通ると、ぼんぼりの光が人形の顔を不気味に照らして白い顔が悲しげで何やしら怖かった。
中村軒に嫁いで来て、この家のお雛さんの明るさに目をみはりました。
里の私のお雛さんと違て、はればれとしたはる。

中村軒の雛人形中村軒の雛人形

明治時代、うちのダンナのおばあさんのために丸平人形店でそろえはったというお雛さんは、気品があるのによそよそしィない、
商家の人形らしいて家財道具一式、おくどさん、お琴等が気持ちをはずませるのんかもしれへん。

お客様に見ていただきとうて、お店の奥の間に飾ってるさかい「いやぁ、かいらしいわあ。いやぁ、こんな箪笥(たんす)。こんなお膳」
と毎日のように明るい声を掛けてもらうとお雛さんはますます愛らしい。

中村軒の雛人形

古代「ひいな」は身代り信仰の「形代(かたしろ)」として厄祓いのために川や海へ流されました。
「川へ流さんようになってもお雛さんは人間の身代りに災厄を負ってくれはるのんえ」と毎年のようにおバアちゃんに
きかされたさかい、だまって災厄をひきうけてくれはったお雛さんがあわれでその美しさが一層怖かった気ィもする。

「お雛さんが怖いてけったいやなあ。世の中で怖いもんは曼殊院の幽霊の絵やわ」と友達がゆうのんで
「みたい、みたい」と連れだって曼殊院へと向かいました。

曼殊院

曼殊院は、はじめはこの場所とちがうとこにあったんやけど、桂離宮を造らはった八条の宮さんの御次男である良尚さんが
修学院の近くのこの地へ移さはりました。

この方は後水尾さんの猶子(ゆうし)になったはる。
大玄関にあたる部屋は虎の間で、その脇の部屋が竹の間です。
この壁紙が竹の絵の版画で、よう似た唐紙を唐長さんで見せてもろた。唐長さんのご先祖が作らはったんかもしれん。

曼殊院曼殊院曼殊院

建築は桂離宮の様式と似てて、引手の瓢箪・扇やらも風雅で、富士の形に七宝の雲の釘かくしも素晴らしい。
黄昏の間の違い棚は曼殊院棚と呼ばれてて十種類の寄せ木で作られてるのんやて。

曼殊院

お父上のセンスを受け継がはったんやなあと何をみてもうっとりとしてたら、ございました「幽霊の絵」

「無念を抱きながら死んでいくと幽霊になるのえ」とおバアちゃんは言うたはったけど、どんな無念があったんやろ。
お雛さんの怖さとちがうのんは「ほれ、どうや、こわいやろ」とアピールしはるようすが伝わってくるのんやわ。
こういう絵にあうと素直に怖がったげんとあかんやろ。
「いやこわい、こわい!どうぞ成仏しとうくりやす」と一心に拝みます。

曼殊院の北には修学院離宮があります。
修学院離宮を建てはった後水尾さんのころは江戸幕府の体制が定まってきて
京都朝廷の権威がおとろえてきた時代やった。

後水尾さんは墨書の筆をとらはるといつも「忍」と書かはったそうな。
幕府への鬱憤を幕府にお金を使わせることによって晴らさはったようです。
33名の親王皇女をもうけはって、それぞれに門跡をつがせ、寺院を建てさせ、みずからは修学院離宮を造営しやはる。

NHKの大河ドラマで「江」をしてはるけど、この江さんは徳川二代将軍秀忠と結婚しやはって、七番目の娘和子さんを
後水尾さんの女御として入内させはる。

秀忠の思惑通りに徳川家は天皇の外戚となったんやけど、和子さんは実家の将軍家と婚家の朝廷の間にあって、
苦しみも多い半生やったやろなあ。

   葦原や しげらばしげれおのがまま とても道ある世とは思はず
                                 後水尾天皇

幕府のとの間にあれこれ事件があって、後水尾さんは突然女一宮に位を譲ってしまわはる。
この女一宮さんは和子さんの娘で明正天皇とならはった。

後水尾さんは幕府と禁裏が緊張を続けた時代に寛永文化を華ひらかせ修学院離宮の造営に心を置かはって
85才の長寿をたもたはった。

修学院離宮を建てる費用の大半が和子の願いによって幕府が出さはったそうな。
和子さんは心ばえの優しい方やったらしい。

曼殊院

様々な事をたどってみると、この時代幽霊より怖いもんは
京都の朝廷にとっては幕府、幕府にとっては朝廷、やったんかもしれん。

子供の頃怖かった実家のお雛さんは今、中村軒に飾っています。
どうしたことやろ、明るいお顔になったはる。

里の中京の暗い座敷に飾ってたさかい怖い気ィがしたけど、お店に飾ると持ち主の災厄の身代りになるという役目を終えて、
人を楽しますという目的にかわって「可愛らしいなあ、よろしおすなあ」という感嘆の声で、お雛さんは毎日が嬉しいなって
きやはったんにちがいおへん。

お菓子

今年もお雛さんには蓬だんごをお供えしまひょ。
よもぎだんごは平安の昔から上巳(じょうし・3月はじめの巳の日、ひなまつり))の節句に作って厄を祓うていました。
実際たんとのビタミンがあって、季節の変わり目にたんと食べとくと病にかかりにくいでっせ。

中村軒ではおいしいよもぎだんごを作ってお雛さんと一緒にお待ちしています。

ほなこの月も、めでたしめでたし。


第124回 梅とお饅頭(岡崎神社・軒端の梅)

東北院 軒端の梅   

   二(ふた)もとの梅に遅速を愛すかな   蕪村

春告草(はるつげぐさ)、匂草(においぐさ)、むめ、等いろんな名前を持つ梅ですけんど、その中のひとつに
好文木(こうぶんぼく)があります。
晋の武帝が学問に励むと梅が咲き、怠るとしおれるといわはったという故事から付いた名前やそうです。

寒い日が続いております。はよう梅が咲くように昔の本を出して勉強しようと源氏物語などひっぱりだして来ました。

源氏物語の中で大納言が匂宮あてに紅梅の枝に手紙を付けて届けはる場面があります。
「園の梅がみごとですよ。鶯が訪れなくてもいいものでしょうか」という内容で縁談のおすすめの手紙です。
梅の枝に手紙を付けて届けてくれはる若君があらわれるのんが私の少女時代の夢やった。

とある日「マサコちゃん、結婚してくれへんかなあ」とエーちゃん(今のダンナ)に言われた。
「オヤジが人手がたらんさかい、はよ嫁ハンもうてくれゆうてうるさいねん」

「ほな何かいな、オヤジ殿のうるさい口をふさぐのと人手不足を補うために嫁にほしいのんかいな。
 人手(ヒトデ)は水族館に行ってもろてこい!梅の枝に付けた手紙はどないしてくれるねん」
「梅の枝の手紙?なんのこっちゃ・・・
 ウチに来たらええぞー、アンタの好きな麦代餅・かつら饅頭食べ放題ヤデ。とにかくはよ決めてんか」

あれこれしてるうちにオヤジ殿がうちに来やはって
「いろいろとおしたくもありますし・・・」
と母が言うと
「そんなもん、おかあはん、何にもいらしまへんで。裸で来てくれはったらよろしいがな」
ハダカやて、なんちゅうデリカシーのない親子やろ。
それから母は高島屋はんの呉服部の人を呼んで松竹梅の着物やら帯やら作るのんに忙しい。

「私は梅の模様はいらん」というと
「あんた何をおこってはるのんや」
「誰も私の気持ちを知らんくせに。梅には私うらみがあるのや!」
「梅は寒さに耐えて百花にさきがけて咲くし、花は香りがよろしい。苔木古木みんな気品があってすがすがしおす」
と母は言うけど

   老梅の穢(きたな)き迄に花多し  虚子

という句もありまっせ。

「梅は上品なだけちごて実(み)は梅干、梅酒になりまっせ。乗り物酔いにきくし、疲労回復にもええ。
 酸味はストレスを解消してくれまっせ。アルカリ性食品やもん」

着物選びからなんでこんなことまできかなあかんねん。
エーちゃんも幼馴染で気心もわかってるしエー人やし不足はないけんど、
梅の手紙を届けてもらえへんまま結婚してどないやろ・・・
和泉式部みたいな情熱的な恋に憧れてたんやけどなあ。

   黒髪のみだれもしらずうちふせば まづかきやりし人ぞ恋しき   式部

心の奥からあふれ出るような歌で1000年のちまで私の心を打つ。
よろしおすなあ・・・歌を思い出してうっとりして頭をおさえてたら
「梅干をコメカミに貼ったら頭痛薬になるえ」と母から声がかかる。
私のまわりはなんでこんなんやろ。

東北院 軒端の梅

和泉式部が出てくるお能の「東北」では、旅の僧が東北院の梅の美しさに佇んでると、若い女が出てきて、
以前ここが上東門院の御所で、庭の梅は和泉式部が植えて愛でた軒端(のきば)の梅ですと語りはじめはる。
幽玄の最上といわれたお能です。

東北院

軒端の梅は神楽岡の東北院に今も健在です。
古色蒼然とした中に佇むと時が止まったようで、心が落ちついてくるのです。

東北院

こんな物語を思い出しながら中村軒に嫁いでから何年たつのんやろ、とわれにかえります。
梅ヶ枝に文を付けて届けてもらう夢も忘れはて、梅のお菓子を作る二月です。

今、私の大好きなんは梅あんのはいった天神さんとゆうおまんじゅうです。
おいしゅうて品がよろし!

中村軒の天神さん

「軒端の梅」ゆう梅あんのおまんじゅうはどないやろ」とダンナにゆうと「何のこっちゃ」と相変わらずの返事ですが、
お互いお客様がよろこんで下さる仕事をしようとする志は同じやさかい有難いといたしましょう。

おいしい梅あんが炊けます様、和泉式部さんにお願いいたしましたので、ますますおいしゅうなるにちがいおへん。

ほなこの月もめでたし、めでたし


第123回 うさぎと餅(岡崎神社)

今年はうさぎ年です。

中村軒に伏見人形の宝袋を引っぱってるうさぎがあって、うさぎ年には店のウィンドウに飾ることにしています。

卯年伏見人形

宝物がいっぱい詰まった大きい袋を引っぱって店に入っていこうとするうさぎの姿はまことに福福しいて
めでたい縁起物です。

うさぎは多産で平和と子授けのお守りで悪運から免れる力があると信じられてて「免(まぬか)」れるという字は
兎から生まれたんや、という説もあります。

うさぎが神さんのお使いとされている京都の岡崎神社は、平安京が出来たときに王城を守るため四方に建てられた社のひとつで、
都の東(卯)の方向にあることから、東天王とよばれていました。

岡崎神社

方除け、厄除けの神さんとして信仰され、又境内には全国でも珍しい龍神様と呼ばれる雨ノ社もあって、
雨乞いの神さんとして崇敬されています。

岡崎神社

昔はこの付近一帯野うさぎの生息地やったそうな。
「野にうさぎ、はわかるけど、なんで月にうさぎなんやろ」と昔がら不思議やった。

偉い先生の話によると、日の神さん(帝釈天)が森の動物に仏さんの教えを伝えはったそうな。
そしたらうさぎ、狐、猿はそのお礼に神さんにご馳走しましょうと思うたんやて。
それぞれ食物を採って来たんやけど、うさぎは探しても探しても見つけることが出来ひんかった。

そこでうさぎは「私は何もご馳走するもんがないんです。私の肉を食べて下さい」とゆうて煮えたった鍋の中にとびこみました。
それを見た神さんは、一途に思いつめたうさぎに心を打たれはって
「私の住む月においで」とうさぎを抱いて月に登っていかはった。
それからうさぎは月にいるようになったそうです。

お月さんをみるたんびに、自分を犠牲にしてまで人のために役立ちたいというすばらしい心を思い出すために、
私はお月さんを拝みます。

岡崎神社岡崎神社

古代中国では月のうさぎは不死の薬を搗いてるといわれてたんやけど、日本へこの話が伝わってからは、
お月さんが一番きれいに輝くときは望月(満月)やさかい、望月(もちづき)が餅搗きに変わっていって、
うさぎが餅を搗くとゆう話に変わっていったらしい。

うさぎでもうひとつわからんことは、動物は一匹二匹と数えるのに、うさぎだけ一羽二羽と数えるのんはなんでやろと思って、
これも偉いセンセに聞いたところ、先生がいわはるのには、
動物(4つ足のもん)を食べへんかった時代に、うさぎは二本足で立つし「鵜(う)」と「鷺(さぎ)」と読んで「これは鳥でっせ」と
ゆうて栄養補給をしたらしい。

子供の頃、うさぎの毛の首巻をしてた思い出がある。お習字の筆もうさぎの毛やった。
身近にある動物やさかい人間の都合で利用されたんやなぁ。
せめては月にのぼらせてあげよかいなと、お話ができたんかもしれん。

お正月には中村軒でもうさぎの型をした可愛い薯蕷まんじゅうを作ります。
それと共に「月」と名前を付けたみかさのご注文をたくさんいただいています。



「お年賀にもっていくお菓子は『月』に決めますわ。うさぎさんとゆうたら月でっしゃろ。
 商売のツキをいただくゆうのんがエンギよろしいな」とはありがたいお言葉です。

今年は厄を払いのけツキをいただき、うさぎのように跳びはね飛躍の年となりますように。
岡崎神社の神さんにお願い致しましたんで、美味しいお餅が搗けることまちがいおへん。

今年も中村軒をどうぞよろしくお願いいたします。

ほなこの年の初めも、めでたしめでたし。


第121回 お菓子の神さん(吉田神社・菓祖神社)

大元宮

今の日本人には宗教心があらへんと言われてますけんど、この400年の間、
政教分離を続けられたんは英国と日本だけやゆうことです。
これは大事なことで、この問題でたんとの国が悩んではる。

もともと日本人は神さん大好きな国民で、私の子供の頃は「井戸の神さん、門口にはおこじきの神さん、
おくどさんの神さん」とそれぞれ家を守ってくれたはるえ」と教えられてきました。

観音さんかって三十三のお姿に変身しやはって私等を守ってくれてはる。
人に裏切られたり、仕事に失敗したりと悲しいことがあると
オバアちゃんは「それはな、観音さんがお姿を変えてあんたをきたえてくれてはるのですがな」
「ほんまかいな」と思いつつ、なむなむと進んでこられたんは、もろもろの神さん仏さんのおかげやないかしらん。

大元宮大元宮

京都にはそれはそれはたんとの神さんがいやはる。
吉田神社のように「一回お詣りしたら日本中の神さんをお詣りしたんと一緒の効果がありまっせ」とゆう
ありがたい神社もあります。
奈良本辰也さんが『京都百話』という本の中で「総合ビタミン剤のようや」と書いたはっておかしかった。

この吉田神社の末社にお菓子の神さんがおまつりしてあります。案外新しい神社で、昭和32年11月11日に菓子業界の人々が
田道間守命(たぢまもりのみこと)はんと林浄因命(はやしじょういんのみこと)はんをおまつりしやはった。

菓祖神社

それではおかしの神さんのお話のはじまりはじまり

垂仁天皇さんはその頃日本になかった「『ときじくのかぐのこのみ(橘のこと)』を捜しといない」と
田道間守命はんを常世の国へ派遣しやはる。
10年の苦心の末、探しあてて戻ってきやはったら天皇さんは亡くなってはって、今は景行天皇さんの時代へとなってしもてた。
命はんはお墓に半分供え、半分を自分が食べはってその後断食してついに亡くなってしまわはったそうな。
後の聖武天皇さんが「橘は菓子の長上 人の好むところ」と言わはった。

「香りがええのんで食べとうなるけんど、酸っぱいし種だらけやないの」
「いやいやみかんのことを昔は橘とゆうたんやろ」
このことから昔のお菓子は木の実や果物やったんがようわかります。
元禄の頃になって菓子がにわかに発達し、ついに菓子と果物が分かれて、果物のことを水菓子とゆうようになりました。

菓祖神社菓祖神社

もうおひとりの神さんは林浄因命はんで、龍山徳見ゆうお坊さんが中国で禅を修めて博多へ戻ってきやはったときに
中国人の林浄因さんが日本へ一緒に渡ってきやはって奈良でお饅頭を作らはった。

中国のお饅頭は餡が羊や豚の肉を包んであったんやけど
「肉は日本人にあわへんのとちゃうか。特にお坊さんはお精進やさかいに」と
肉のかわりに小豆で作った餡でお饅頭を作らはった。これは奈良まんじゅうとよばれて大評判となりました。

この御子孫は京都へ出てきやはって烏丸三条下るで饅頭屋をはじめはる。
今もこの地は饅頭屋町の名前が残っています。
御所の西に立売とゆう地名があるけんど、ここは饅頭を立ち売りしたところと伝えられています。
このころは二度の食事やったさかい、お菓子は昔の八ツ時(午後二時)にとる間食用やった。

時代に応じてお饅頭も変化していくけんど、お腹を満たすだけではのうて、心のすきまも満たして
くれるのも
お菓子の役割やないかしらん。

特に日本のお饅頭は季節ごとに自然を取り入れたものが作られています。

楽しいこんな歌があります。

 「くいしんぼうのカレンダー(NHK放送みんなのうた)

  むつき はねつき つばきもち
  うめの花さく うぐいすもち
  やよい 草もち 春一番
  菱餅 あられ ひな祭
  うづき お花見 桜餅
  端午の節句 かしわもち
  さなえ みなづき ころもがえ
  長雨 あけて 水ようかん
  ふづき たなばた ところ天
  プール帰りは 宇治金時
  おはぎ ながつき ひがん花
  月見だんごに くりかのこ
  ききょう くちなし かんなづき
  木枯ふいて 酒まんじゅう」

10月11月は栗の美味しい季節です。

栗は万葉時代には『くる』と呼ばれていました。そういえば栗栖(くるす)さんとゆうおつれがいやはったもん。

この秋、家で炊いた栗のいっぱい入ったおいしい栗羊羹を新しく作りました。
名前は「くるくる」
「くるくる」働いたはる方がほっと一息して幸せな気持ちになってくれはりますようにと
田道間守命はん、林浄因命はんにお願いいたしました。

神さんたちは
「くるくる 働く人々のために おいしい お菓子を 作りなはれ」と応援してくれはるにちがいおへん。

ほなこの月もめでたし、めでたし。


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