第193回 岩茶

丹波篠山に大好きな喫茶店「岩茶房丹波ことり」があります。

珍しい岩茶の茶房で、行くたび肩の力が抜けてみずみずしい気持ちをもらって戻ってくることが出来るのです。

 

岩茶は中国福建省福州にある武夷山という霊山の岩肌に深く根を張って、岩の養分と朝の光霧と山の水だけで

生きているお茶で、中国でも生産量の大変少ないお茶です。

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中国においては名茶を外に出すのは国を売ることと同じであると言われていて、岩茶はこれまで一歩も国を

出たことのない深窓の名茶なのです。

 

初めて日本に岩茶の茶房を出された左能典代さんの純粋な熱意と日本文化交流のために岩茶を日本に

出していただけたなりゆきは、左能さん著の「岩茶のちから」に詳しく書かれています。


私が岩茶を初めて飲ませていただいたのは陶芸家の柴田雅章先生のお宅です。
先生の焼かれた茶器で奥様お手製のお菓子と共にいただく岩茶はいつもイライラしている私の気持ちを

すうっと溶かしていつまでの胃のあたりがあたたかいのです。

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先生ご夫婦のお人柄と自然に包まれたお家の雰囲気もあるのですが、背負っている重いものをすべて

下ろせた思いがするのです。それよりのちに柴田先生のお嬢さんが岩茶房丹波ことりを開店されました。


篠山城址のお堀端にある武家屋敷を改装した緑に包まれたところです。

 

いろんな種類の岩茶はもちろん、中華粥、豚まんじゅう、水餃子も美味しくて

食事のあとの自家製のお菓子は最高です。

器はすべてお父さんの焼かれたスリップウェアです。

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お店のところどころに活けてある野の花も柴田先生のお宅から持ってこられるとのこと。

何もかも私好みのお店です。

 

先日NHKの美の壺という番組でスリップウェアの特集がありました。
スリップウェアのあのおおらかな線はどうしたら生まれるのか、

「それは、おまかせです」と先生はおっしゃる。


「作為をこえる美があらわれる」とタイトルにも書かれていました。これは岩茶も一緒なんや。

人間がはからった事をせんと武夷山の自然におまかせするさかい深い香りがあらわれるのやわ。

 

  とやかくと たくみし桶の底ぬけて 水たまらねば 月も宿らず


ゆう歌があるように、技工に走りすぎるとお饅頭も美味しさがそこなわれてしまう気ィがする。

 

「最後に一番おいしいもんは餅とだんごや」とおじいちゃんはいつもゆうてはった。
左能さん著の「岩茶のちから」の中に次のような文章があります。

 

ドイツの古い諺に


  澄んだものを飲みなさい

  稀なるものを愛しなさい

  よく調理したものを食べなさい

  真実を語りなさい


岩茶は全てに当てはまります。

 

私は家ではゆっくりと岩茶をいれ、中村軒創業以来作り続けている

六方焼やかつら饅頭で頂きながら、このドイツの諺を味わうのです。

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そして様々なご縁をありがたいと思うと同時に、中村軒も「ことり」のように

ほっとくつろげる店でありたいと思うのです。

 

ほなこの月もめでたし、めでたし。


第169回 占い

子供の頃、姓名判断の偉い先生が近所に引っ越してきやはって、
私の名前を見て「この名はようない。20才の年に命落としまっせ」と言わはる。

母は泣いて
「どうしたらよろしいやろ」
「まだちっさいさかい、呼び名だけでも『まさこ』にしなはれ。運命は変わりまっせ」

お言葉どおり、20才のときに交通事故にあい、軽い怪我ですんだんで、母は又泣いて
「あのとき名前を変えてへんかったら死んでたんや」とすっかり姓名学の信者になってしもた。

「世の中には理屈でわからんもんがあるにちがいおへん。
 そやさかい清明神社さんへ赤ちゃんの名前を付けてもらいに行かはるのやわ。よう流行ったはる」

神社が流行るゆうのもけったいな言い方ちゃうのん。
最近まで私は清明神社は姓名神社で、名前を付けてくれはる神社やと思い込んでました。

安倍晴明はんが本にも映画にもなってから陰陽師で才能のある人やとわかってきた。
清明はんは大阪の阿倍野で生まれはったんやて。今もそこに安倍晴明神社があるそうな。
どんなとこや、行こ行こ。

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まず天王寺まで行って阪堺電車という電車に乗ります。
途中「松虫」ゆう駅を通る。アレ、お能にある松虫塚のあるとことちゃうのんと想い出す。
謡本に阿倍野村より五町ばかり西北と出てきたもん。

   秋の野に人松虫の声すなり
   我かといきて いざとぶらはん

降りてみたかったけど電車は動き出してしもた。
東天下茶屋駅で降りる。

平安時代さかんやった熊野詣の九十九王子の第二番目である阿倍王子神社と
安倍晴明はんを祀る安倍晴明神社は背中合わせに建っています。



すがすがしい神社で清明産湯の井戸があり、占いコーナーもあって、毎日交代で
エライ先生が来やはるそうな。

清明さんのお母さんは清明さんのお父さんに助けられた白狐で、名は葛乃葉。
清明はんが5才のとき、白狐であることが知れて

   恋しくば尋ねきてみよ和泉なる
   信太の森のうらみ葛の葉

の一首をのこうして信太の森へ帰っていかはった。
狐さんの好物の油あげを袋にして具を詰め炊いたんを信太巻ゆうのんはこれから付いたんやわ。

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古代から狐は霊力を持つといわれてて、白狐の母親を持つ晴明はんは、のちに京都へ出て
天才陰陽師師とならはった。

せっかく大阪まで来たさかい、四天王寺へお詣りすることとなりました。



四天王寺は飛鳥寺とならび、日本における本格的な仏教寺院としては最古のお寺です。
ここも又、お能の「弱法師(よろほうし)」に出てくる。

この四天王寺のそばに、世界最古の企業、金剛組があります。創業は飛鳥時代、西暦578年です。
四天王寺建設のため、聖徳太子によって百済より招かれた3人の宮大工のうちの一人、金剛重光はん
によって創業されました。

このあたりには夕陽丘という地名もあります。

   風そよぐならの小川の夕暮は
   みそぎぞ夏のしるしなりける

と詠まはった藤原家隆は、晩年ここらに夕陽庵をむすび、夕日を拝んで歌を詠んではった。

   契りあれば 難波の里にやどりきて
   浪の入日を拝みつるかな

それよりここは美しい落日の名所となって夕陽丘と呼ばれたんやて。

この旅のしめくくりは地上300mのあべのハルカスにあがりまひょ。
はるか葛城山、金剛山ものぞめるし、晴れた日は京都タワーも見えるらしい。
私は落ち着かへん。体がずっと揺れてる気ィがした。



晴明はん、家隆はん、飛鳥時代に四天王寺を建てはった金剛さんやら、あの世でこの建物に驚いたはることやろ。
「君よ今昔之感如何」と吉川英治さんの言葉を思い出す。

急に熱いほうじ茶とかつら饅頭が食べとうなってきた。
古代から現代までの阿倍野をかけめぐり、目のまわるような一日を過しました。

清明さん、中村軒をよろしゅうおたの申します。

ほなこの月も、めでたしめでたし。

第156回 日本一のもち米

私は白洲正子さんの『かくれ里』のファンでかくれ里に書かれている滋賀県をたずねるのが楽しみです。

甲賀の油日神社から「かくれ里」の連載が始まります。
油日神社は次のように書かれています。

「まわりは見渡すかぎり肥沃な田畑で、鈴鹿の山麓にこんな豊かな平野が展けているとは今まで思ってもみなかった。
 南側の鈴鹿山脈の続きには、田圃をへだてて油日岳が堂々とした姿をみせている」

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繰り返しこの文章を読んで、このあたりに行きたいとおもいつつ忙しさに紛れてしもてた。

話はかわるけど中村軒のお客様が
「中村軒のお餅・赤飯は日本一美味しいと思てますけんど、どこの餅米ですか?」
「うちのんは江州羽二重餅で甲賀の小佐治で作ったはる餅米ですねん。
 300万年前小佐治は佐山湖ゆう古琵琶湖やって淡水の貝の化石が今も出てくるらしいでっせ。」

お客様に説明するばっかりでここへ行ったことがなかったさかい「行こ!」と決めて、取引をしている
小佐治の米問屋さんに連絡をとって行くことにしました。

地図を見てみると、あれ!ここは行きたいと思てた油日神社のあるとこですがな。
これは神さんのおみちびきにちがいおへん。

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出かけた日ィは油日神社のお祭の日ィで(9月13日)、この前々日の9月11日の夜は「岳ごもり」ゆうて、
ご神体のある油日山頂ご神火を焚かはる。

13日の夕方から里宮の本社で万灯の灯明をあげて徹夜でご神火を焚かはるそうな。
太古の時代、油日岳の山頂に「火が燃え一大光明を発す」と田来記に記されている。
この光と共に岳大明神が降りてきやはってご神体として崇められてきました。

このあたりは有名な甲賀忍者の里でもあります。
忍者は火術が得意で、昔見た映画で火薬玉を爆発されて煙とともに消えたり、火矢を使うたりしたのんを思い出した。
火薬の材料が入手しやすかったり、火薬の研究をさかんにしたはったんかもしれん。

特に薬の扱いが上手で、今も製薬会社が多いのんです。

ひょっとしたら油日山に火が燃えたゆうのんは忍者の火薬の実験やったんとちゃうやろか、とゆうて
オバアちゃんにひどう叱られてしもた。

白州さんのお気に入り、福太夫神ノ面はお祭の用意で資料館が閉じてて残念やった。
「又あらためて来なさい」とゆうことやなあと言いながら田んぼを案内してくれはる方々と会う。

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「日本一の餅米です」と胸をはらはる稲は黄金色に実ってる。
「山間にある田んぼは昼は温度が上り、夜は冷えるさかい、その温度差でも美味しいお米ができます。
特にここは佐山湖とよばれる小琵琶湖で湖底深くに堆積した粘土層の土、これを地元ではズニンといいます。
この土にはミネラルがいっぱい入ってて、化成肥料に頼らずに自然本来の地力で甘みと粘りとコシのある
この土地独特の餅米を生産することができるのんです」

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JAの若い職員さんの説明を聞きながら自慢の餅米はあの油日の神さんが守ってくれはるのんやと思いました。

粘土質の耕しにくい土を耕しながら、昔の人はいくたびも油日岳を仰いで豊作を神さんに祈らはった事やろ。
丹精しやはったお米で中村軒で丹精して搗くお餅・赤飯は美味しいないわけがありまへん。

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この美味しいお餅・赤飯をぜひ召し上がっていただきたいというのが中村軒で働くもの全員の願いです。
ぜひぜひお越しやしとくりやす。
ほんまもんの美味しさに納得してくれはること間違いおへん。

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秋は栗餅・栗赤飯も美味しい!
心よりお待ちいたしております。

ほなこの月も、めでたしめでたし。


第154回 桂瓜と山野草


   離宮より風わたりくる水羊羹  優江

中村軒のお向かいの桂離宮は明治14年に宮家が絶え、桂宮御屋敷は明治16年に宮内省所管となって桂離宮となりました。

この明治16年に中村軒は創業しています。

桂離宮はもともと八条宮智仁親王の別荘で
「下桂瓜畑のかろき茶店へ陽明(近衛信尋)御成に候」と近衛さんを迎える文章が残ってるそうな。

桂の地は瓜畑のかろき茶屋、と八条の宮さんがゆわはったように、桂瓜の産地やったのに
現在は桂瓜を作ってはるのは数軒のみで、絶滅が心配されてます。

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幻の京野菜となってしもてるのを近年、桂高校の農業科の生徒さんが種をゆずりうけて育ててはる。

桂瓜は皮が薄うておいしいのやけど、病気になりやすうて栽培が難しい。せっかく育てても買う人がないと
跡絶えてしまうのんで、農業試験所の方が「桂の銘産としてお菓子に出来まへんか」とゆわはる。

桂瓜の完熟したものはメロンのような香りです。完熟した桂瓜にはガン細胞を抑える効果もあることが
最近の研究でわかりました。

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香りは高いのに甘味とカロリーが少のうて、メロンの6倍レモンの1.2倍ものビタミンCが含まれています。
ビタミンCは熱に弱いので、熱を加えずに製造できるジェラートにいたしました。

日本人の食生活が欧米化してきた現在では、肥満や高カロリーのとりすぎによる病気が心配されています。

偉い先生の話によると、人間の体は全体の60%が水分やそうで、良い水を摂ることが大事。
とくに野菜や糖質の低い果物に含まれている水分をたくさんとることが病気予防やとゆうたはる。

桂瓜は96%が水分で、糖度はなしです。
乳製品を一切加えてへん中村軒のジェラートは、一般のアイスクリームの1/3のカロリーです。
あと口がさっぱりとして、ほんまに涼やかなおいしさです。

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最高の材料で添加物を極力使わず、なるべくシンプルに、そして美味しいお餅・お饅頭・お菓子を作るのが
中村軒で働く者の願いです。

そしてもう一つ、私の夢はいつも店内に自然な花があることです。
通路や中庭に山野草を育てています。
お花を見ていただきたくて、ようわからんけどツイッターゆうのを始めています。

若いころはあでやかな花が好きやったけんど、だんだん野の花が好きになってきました。

川瀬敏郎さんの一日一花という本をお客様よりいただきました。
その中にとても心打たれる文章があります。

「日本という国の粗型は今でも人為のおよばない自然ではないか、と私は考えています。
『素』の美しさをとうとぶ心情もそこに由来するものでしょう」

お菓子もお花も自然なものが人が一番求めるものやないかしら。

山の花がみとうなって伊吹山へ出かけました。
織田信長が安土城にいやはったころポルトガルの宣教師が、人の病を治す薬草栽培が必要であると進言しやはって、
伊吹山に3000種類の薬草が植えられたそうな。

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   薬山のその名負うべし夏がすみ   宇佐美魚目

イブキトラノオ、シモツケソウ、クガイ草が山の風に吹かれて幸せの一日でございました。

目には花、そしてこの夏は幻の桂瓜のジェラートで健康間違いなしでっせ。

ほなこの月も、めでたしめでたし。


第142回 天の橋立

東京から来やはった男性三人のお客様が「おかし歳時記」を書いてる女将はどの方ですか?」と聞かはるのんで
「私です」と言うと三人とも声をあげて笑わはる。
「何か私しましたか?」というと
「いや、失礼しました。実は桂離宮への帰りに中村軒に寄って麦代餅とおうすをいただこうという話になってネ、
 女将は色白の京美人に違いないと噂してたもんだから。アハハ」

噂によると京菓子屋の奥さんは美人が多いらしい。
美人の奥さんがお客を呼ぶゆうこともあるのやろか。
江戸時代「幾代(いくよ)」ゆう美人の奥さんが『幾代餅」とゆう餅を売って評判になったということもあるのやけど・・・

「中村軒は一に味、二に味、三に味で皆さん来てもろてますねん」というと
「ごもっとも。この麦代餅のおいしい事!アハハ」
「ほっちっちかもてなや。私の子やなし孫やなし。赤の他人やほっちっち。親類になったらかもてんか。
 アカンベーやわ」(ほっちっちの歌はこの号にも→http://nakamuraken.jugem.jp/?eid=80)

こんな時はウサバラシに海を見に行こ。
「いつみても胸のすくのは天の橋立どっせ」とオバアちゃんは言うたはった。

ジパング倶楽部の歴史ツアーで『日本人の謎を探る元伊勢籠神社・真名井神社』というのんに申し込んだ。

天橋立駅で集合して本日の会場でエライ先生に丹後王国のお話を聞く。
息子が出た大学の先生で若うて男前で熱心でお話もわかりやすうて楽しい。

こうしてみるとやっぱり私も男前の先生に話を聞くほうが嬉しいにちがいないと、例の東京三人組の気持ちも
わかるような気ィがした。

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天橋立の籠(この)神社は元伊勢と言われてます。

 伊勢へ詣らば 元伊勢詣れ
 元伊勢 お伊勢の故里じゃ
 伊勢の神風 海山越えて
 天橋立吹き渡る

現在三重県伊勢神宮にいやはる天照大神さんは数々の場所を巡幸しやはったあとに伊勢の地に
鎮座しやはったんやて。

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伊勢神宮の秘伝書に書いたあるんは
1ばんめ 大和 笠縫邑(かさぬいむら)
2ばんめ 丹波国 吉佐宮(籠神社)
にはじまって27番目に今の伊勢におさまったはる。
なんでこない引越ししやはったんやろ。

先生の話では、元伊勢のほとんどは古来からの太陽信仰の聖地やったそうな。
そうゆうたら丹後丹波は古うは旦と書いた。
旦は元旦の旦で、日の出の事です。

天照さんは海照(あまてらす)と見ることができて、お伊勢さんは海から昇る太陽への信仰が篤い土地やもんな。

元伊勢の籠神社の神主さんは海部(あまべ)氏で、現在82代目2000年以上の歴史があるのんやて。

興味尽きひんお話のあと食事(海鮮丼とお汁)をいただき、舟に乗って籠神社へと向かいます。
ここの神さんである火明命(ほあかりのみこと)が竹で編んだ籠船に乗って海神の宮へ行かはったんで
籠神社という名が付いた。

神主さんがおはらいをしてくれはった。
いただいた御神餞は古代丹後の赤米です。
この袋に書いたあるのによると、

「日本のお米の原点とも言われる赤米は豊受大神(伊勢神宮外宮の御祭神)が丹後国に
 天下(あもら)れた時に授けた稲種が起源と伝えられています。
 神秘な生命力に満ちた赤米をごはんの中に炊き込んで大自然の全ての命を活かされる
 大神さまの有難いおかげをお受け下さい」とある。

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赤米は赤飯のルーツで赤米を作らんようになってから神さんにお供えするお米を小豆やキビ殻で赤うしてたと
ゆわれてます。

中村軒では赤飯をキビ殻で染めてます。
この赤飯が最高です!

中村軒のお赤飯

赤い色は生命の色で、魔を祓う色という考え方が日本人の奥深うに伝わってきたんにちがいおへん。

丹波という名は丹(あか)い米が波をうつように豊かに稔る国という意味もあるらしい。
これはツアーで一緒やった方に教えてもろた。

籠神社の奥の宮が真名井神社で、おいしい水がわいてます。

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天村雲命(あめのむらくものみこと)が高天原に行かはって、神さんが使わはる天の真名井(あめのまない)の水を
持ちかえり、古代丹波の泉に合せはったんでこのお水は『天地根源真名井の水』と言われて、
私もありがたく飲ませて頂きました。

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ありがたいお水を手に天橋立松並木の遊歩道を通って駅へと向かいます。
この不思議な天橋立はイザナギノミコトが天界と下界を結ぶはしごを立てはったのにミコトが寝てはる間に
海上に倒れてそのまま一本の細長い陸地になったんやて。
神さんもうっかりしやはったといいながら歩いてみると楽しい。

天橋立駅で解散。
男前の先生に中村軒のおいしい『あゆ』を差し上げた。
あゆはちょっとしたお礼に持ち歩いてます。姿もええし日持ちもします。
「嬉しいです」と若い素直な先生でした。

中村軒へもどるとスタッフが
「奥さんのおかし歳時記のファンの方が来やはって逢いたかったのに残念やわといわれてましたえ」
「男の人か?」
「いえいえ女性です」

色黒のおかめでも逢いに来てくれはる人もいはるのや。
東京の三人組に知らせたいわ。

ほなこの月も、めでたしめでたし。


第92回 鮎(番外編 はちみつを訪ねて)

むしむしとした日ィが続きます。
口あたりのええお菓子に冷たい麦茶でほっとしまひょ。

寒天を使うた「あじさい」、そして6月のお菓子の「みな月」ももちろんのこと美味しいけんど
鮎の形をした焼菓子は姿もすがすがしゅうて夏らしいお菓子です。
3日間くらいは日もちがするのんで、おばあちゃんは夏の手土産は「鮎」と決めてはった。

中村軒の若鮎

中村軒のある桂は昔から「桂鮎」と呼ばれる鮎がとれるとこで、桂御厨(かつらみくりや)があって鵜飼い漁法で獲った
鮎・鮒なんかを朝廷に貢進してはった。

御厨とゆうのんは、古代・中世の神領のことで、皇室の供膳や主要な神社の神饌を調達してました。
その見返りとして税をとりたてる使庁役がその一帯へ入らないことになっていたそうな。

これらに従事する人は『桂贄人(にえびと)、12世紀以降には『桂供御人(くごびと)』とよばれたはって、
漁業だけでのうて、桂川の渡船業もかねたはったらしい。

桂川

桂供御人と同じ集団にいやはったんが桂女で、毎年鮎鮨樽を和泉国日根野や奈良興福時に持っていかはった
記録があります。

  かつらより鮎つる小女ひきつれて 今ぞ雲井(宮中)のひなみしるらん
                           弁内侍(鎌倉中期歌人で藤原信実の女)

と歌がのこっています。又、鎌倉期成立の「東北院職人歌合」桂女の歌に

  桂川ふるかはのへの鵜かひ船 いく夜の月をうらみきぬらん

とあるのも、彼女らが鵜飼い集団の一員であったことを思わせます。

源氏物語の「常夏の巻」では源氏の君に、親しい殿上人が数人参って西河(桂川のこと)より献上の鮎、
近き川でとれた鰍(かじか)の様な魚を焼かせて、東の釣殿に出て涼むという場面があります。

鮎は平安時代には桂の里のものが最上とされていましたが、桂川で友禅を洗うようになってから水が汚れて、
近年ではもっと上流の保津川あたりのがよいとされています。

桂川

戦前中村軒の隣は万甚さんという川魚の料亭があって、舟を桂川に浮かべ、とった鮎を食べさせてはったけど、
その万甚さんも今はなくなってしまいました。

お菓子の鮎は昔から京都人に好まれたお菓子で、小麦粉で焼いた皮にりゅうひが包んだある。
中村軒ではこくのある甘味と香りとおいしそうな焼色をつけるために、皮に蜂蜜を入れて焼き上げています。

中村軒の若鮎中村軒の若鮎

この蜂蜜がこの頃手に入りにくうなってきてます。
田舎にもどんどん家が建ってれんげ畑が少なうなってきたせいかしらん。

何とかしてよい蜂蜜を確保したいと知人を頼って養蜂園に行ってまいりました。

四国の蜂蜜
四国の蜂蜜四国の蜂蜜

蜂蜜の歴史は人類の歴史という言葉があるそうで、スペインのアラニア洞窟で発見された1万年前の壁画に、蜂の巣から
蜜を取る女性が描かれているそうな。
日本では百済の太子余豊が大和の三輪山で養蜂を試みたことが日本書紀に出てきます。

昔は薬として使われたとゆうことで蜂蜜には人間に必要なミネラルがほとんど含まれています。
蜂蜜の中に赤痢菌を入れると10時間で死滅してしまう強力な殺菌力もあります。

ハネムーンの語源は、新婚1ヶ月の花婿にハチミツ酒を飲ませたという古代ゲルマン人の習慣からきているということです。

中村軒ではこれからのシーズンに人気のかき氷の蜜を炊くとき白砂糖と共に蜂蜜も入れて炊いています。

「みぞれ」という白蜜だけかけた氷を食べると、蜂蜜の香りがします。
この白蜜ベースに上等な宇治の抹茶をといたのが宇治氷。
とれたてのイチゴをつぶして白蜜と合せたのがいちご氷。マンゴーと合せたんがマンゴー氷です。

中村軒のかき氷

この氷をおあがりやして、とびきりおいしい鮎のお菓子をおみやげにどうぞ。
この夏も元気でお過ごしやすことまちがいおへん。

ほなこの月もめでたし、めでたし。


第90回 山国の桜(京北の桜・山国神社)

山国神社

  提げ歩く鞄に今日は桜餅  村山古柳

4月のお菓子はなんちゅうても桜餅です。
ほんのりと塩味の桜の葉が道明寺に包んである。餡はさらっとしたこし餡です。
口へ入れるとしっとりと桜の香りが広がります。日本人はなんでこんなに桜に心ひかれるのんやろ。

古代には桜は田の神が姿を変えはったと考えられてきたそうです。
桜はその年の豊作を占う木やったらしい。

山国神社

京都の桜の名所は数えきれんほどあるけんど、私が好きなんは山国の常照皇寺の桜です。
京都から清滝川に添うて山桜をみながら周山街道をゆくと北山杉で有名な中川の集落へと出ます。
ここよりさらに奥へはいると京北の里、山国です。

山国神社山国神社

山国は平安遷都の折、大内裏造営の用材を調足し、明治2年まで天皇さんが領主となって支配する禁裏御料地なっていました。

皇室とご縁の深いとこで明治維新にはこの村の若者たちは山国隊を編成し、戊辰戦争に参戦しました。
軍費自弁やったときいてます。

こんなことから平安遷都110年を記念して始められた時代祭の最先頭を山国隊が歩きます。
時代祭が始まったころは山国村の人々が奉仕しやはったけど、大正10年からは市内の朱雀学区に受け継がれています。

この山国の常照皇寺というお寺に「御車返し」という桜の名木があります。
後水尾天皇さんがお越しやったとき、
「一重やったやろか、八重やったかしらん」ともう一度車を返して見にもどらはったと言い伝えられています。
実は一重と八重のまじった品種の桜やそうな。

山国神社

この桜の常照皇寺は光厳法皇が成就寺の庵を直して住まわはったんが始まりです。
「事実は小説より奇なり」とはこの光厳さんのことをゆうのんとちゃうかと思うほど、
南北朝の争いにまきこまれ、えらいめにあわはったお方です。

後醍醐天皇が倒幕に挫折しやはったとき、北朝の始めの天皇さんにならはった。
ほんまに次から次へとややこしい事ばっかりが続きます。

後醍醐天皇さんは捕まらはって六波羅へ移されはる。
ここは光厳天皇さんの御座所やったさかい葦垣をへだてたばっかりの同じ所で
南北両朝の敵同士の天皇さんが暮さはる事となりました。
ほんまにワヤクチャや。

知っといやすとは思いますけんど、後醍醐さんは隠岐へ流されはったあと脱出して建武の中興となります。
光厳さんは北条仲時に連れられ近江路を落ちていかはるときに南朝方の捕らわれの身とならはります。

足利尊氏は南朝へついたり北朝へついたりしたあげくの果て、南朝に光厳、光明、崇光の三上皇を渡してしまわはるさかい、
この方たちは河内の金剛寺へ幽閉されてしまわはる。
ここでも下の書院には南朝の後村上天皇がいやはって上の離れには北朝の上皇方がお住まいやった。

思うだけでもイジイジして肩のこる思いやったやろ。
賀名生に移らはったとき、ついに光厳さんは剃髪しやはって、修行の旅に出はる。

「しがみつくほどのこの世でなかりけり」
これは現代の川柳作家の句やけど、こう思わはったんにちがいおへん。

出家しやはってから高野山をへて吉野山へ入り後村上天皇を訪ねはる。出家の身には南朝も北朝もない。
やっと心よりのお話をしやはったことやろ。

諸国行脚の後、光厳さんは山国の常照皇寺にたどりつかはんのです。
これからは村の人々に「コーゴンさん」と神さんのように、又友達のように慕われはったそうで、やっと平穏な半生を過さはる。

山国神社

この寺の桜はそのとき弟の光明上皇より送られた桜です。咲くを見て散るを見てどんなにか心をなぐさめはったことやろ。

 イヅレノ花カ散ラデ残ルベキ
 散ルユエニ ヨリテ
 咲ク頃 アレバ 面白キナリ

限りある生命を精一杯咲いて散る桜。もののあわれに感動する日本人の心にぴったりなのはやはり桜です。

桜を愛でる宴には桜餅がぴったり。

光厳さんにも差し上げたかったとしみじみいただく桜餅です。
戦いのない平和な世の中はありがたいですね。

ほなこの月もめでたしめでたし


第89回 みちのくと京都のお菓子(東北)

東北

弥生三日はうらうらとのどかに照りたる、と枕草子に書いたある。
偉いセンセによるとヤヨイは木草(きくさ)弥生(いやお)い茂る月という意味で「いやおい」が詰まって「ヤヨイ」となったらしい。
草木だけでのうて、あらゆるもんの生育が盛んなようすをいうらしい。

心もウキウキしてきて旅に行きたいなと芭蕉はんが元禄二年「奥の細道」へ旅立たはったんは旧暦の弥生20日でした。
奥の細道の行程はおよそ450里(1800キロ)、日数は143日前後どす。

「好きな京都を離れてみちのくへと行ってみたいなあ」というと
「中村軒へ嫁いで○年記念にみちのくへ連れたげるがな」とダンナがゆうてくれました。
「とるもの手につかず」とりあえず新幹線で仙台へ
京都を9時半に出ると14時20分には仙台着なんて芭蕉はんの時代には考えられへんことや。

  都をば霞とともにたちしかど秋風ぞ吹くしらかわのせき 能因法師

昔は気が遠なるほど歩かはったんやろ。

翌日は憧れの平泉へと向かいます。
「まず高館にのぼれば・・・」と芭蕉のまねをしてみる。
北上川の美しい流れの彼方に衣川はあのあたり、と見当をつけます。

東北

「義臣すぐってこの城にこもり功名一時の叢となる 夏草や兵どもが夢の跡」
ぐっと涙が出てきてるのに、ハヨハヨとダンナにせかされて中尊寺へと向かいます。

奥州藤原氏の黄金の力で栄光を築かはった。
金色堂が残ってへんかったらみちのくにこんな文化があったやなんて誰も信じられへん。
金色堂は「これが浄土の輝きゆうのんやろ」と息をのみました。

夜光貝、紫檀、アフリカ象の象牙なんかの材料が使われて、広う交易をしてはったんやと感心します。
お砂糖は手に入ったんやろか。
このみちのくの王者はどんなお菓子を食べてはったんやろ。

砂糖が日本へ渡ってきたんは鑑真さんが天皇さんの献上品として持ってきやはって、
はじめはお薬として使われていたと言われています。

平安時代のお菓子の甘味料は主として甘葛(あまづら)煎やった。
これ以外には蜂蜜と飴と柿やったらしい。

そうゆうたら秋田の銘菓に「さなづら」ゆうのんがある。
さなづらとはもともと山野に自生する「ぶどう」のことで、これをもとに作ったゼリーのようなお菓子で自然な味が美味しい。

雪の深いみちのくでは冬の非常食として「氷餅」ゆうお菓子が作られてきました。
「干し餅」ともゆうて、黒胡麻や小豆を搗き込んだお餅を薄う切って冬の寒気にさらしたもんで、
私たちが泊まった鶴の湯の軒端にも吊るされてました。懐かしい味がします。

東北
京都で氷餅ゆうたら餅米を水挽きしてできた米汁を煮て枠に流し、凍らせて乾燥し砕いたもんで、
中村軒では「道明寺」の上にかけたり、雪や霞を表現するときにお菓子の上に散らします。

角館の武家屋敷で「冬がたり」ゆうて、炉端でお話をしてくれはるのに寄せてもらうこととなりました。
「むがすむがすなあ・・・」とお話は始まります。

角館の桜は、京都から佐竹公にお嫁にきやはったお公家さんのお姫さんが持ってきやはったのが根付いたのが広がったそうです。

囲炉裏で焼いたはる栗・ぎんなん、そしてここの名産いぶりガッコ(いぶしたたくわんを漬けたもの)がふるまわれて、
これがお菓子のほんとの形やと秋田なまりと共にあたたかく、しみじみと味わいました。

東北

どこへいっても「おやつ」は人と人との間をやわらかくあたたかくし、気持ちをほぐしてくれます。
そこに思いやりの言葉がそえられるとなおさらです。

みちのくで珍しいお菓子、食物に出逢え、西行や芭蕉を偲んで豊かな時を過ごさせてもろた。
だんだん中村軒の麦代餅やよもぎだんごが恋しゅうなってきてハヨハヨと帰途につきました。

芭蕉が歩いた道、義経が逃れた道をたった8時間ほどで京都までもどれるなんてほんまに
めでたしめでたし


第78回 行者講と吉野の桜(奈良・吉野)

吉野

古うから続いてたことがだんだんすたれていく。
だんだんゆうより私らの代になってから急になにもかも出来んようになっていくことが多い。

子供の頃、行者講ゆうのんがあって、役行者(えんのぎょうじゃ)さんを信仰する人達が
当番の家に集まって行者さんの掛軸を拝みます。

月掛金も集めはって、年に一回吉野大峰山へお参りするのんです。
父の話では大峰山ではいろんな行場があって特に怖いのは、崖淵に両足を先達が持って逆さまになり、
千仞(せんじん)の谷の断崖のくぼみに彫られている役行者さんを拝むらしい。

両足を持ったはる先達が「両親を大事にするか、仕事を一生懸命するか、夜遊びせえへんか」と言われ
目の下のあまりにおそろしい谷に「悪いことはしません!」と誓うとようやく岩場から助けてもらえるのんや

その他命がけの難所がいっぱいあって生死の境を体験するそうな。
とにかく未だに女人禁制の山やさかい私はよう知らんけど。

吉野山吉野山

「大峰山へも参らんようなやつは嫁の来てもないぞ、勉強しかできんやつはどんならん」ゆうのんが叔父の口癖やった。

「役の行者てどんなお人やのん」
行者数珠を下げたお参りのおじさんにきいたら
「大峰山で修行しやはってな、神さんに変身しやはったんや」
「ほんまかいな」

「吉野山に金峯山とゆう峰があってな。行者さんが登らはったら天から声があった。
 行者さんがひたすら祈らはったら山が揺れ出てな、出てきやはったんが蔵王権現やった。
 その姿を桜の木に彫って蔵王堂を設けてご本尊としやはった。
 蔵王さんは蓮の花と違て桜の花びらの上にのったはる。
 おまいりしやはる人が次々と桜の木を植えて蔵王さんのおそなえの花にしやはったさかいにな
 吉野の山は桜の木に埋め尽くされたんや」

吉野山

  昔たれかかる桜のたねをうえて 吉野を春の山となしけむ 京極良経

良寛さんの辞世の言葉に「散る桜 残る桜も 散る桜」ゆうのんがあるけど、
死んだゆうことは消えてしまうのんとちごて、次々の生命を生み出すもとや。
自然の大きなうねりの流れの中にもどりまひょ、と行者さんは教えはったんやろ。

山で深い谷の府をのぞいて死の苦しみを味おうて穢れを落として新しい気持ちでよみがえりの道を又歩き出すのんや。

そやさかい「ありがたや 西ののぞきにざんげして 弥陀の浄土へいるかうれしき」と年にいっぺん修行にいくのんやで。

子供の頃はようわからんかったけど、今になると何とのう輪郭がつかめる。
中村軒のある下桂のとなり村が下久世で、「蔵王の森」ゆう森の中に「蔵王堂」があります。
昔吉野の蔵王さんを勧請しやはったそうな。

吉野山吉野山吉野山

山形県の蔵王も山の上に蔵王権現をおまつりしたあるさかいに蔵王といいます。

蔵王さんは時の権力者と結びついた話はきかへんので、庶民の強い味方やったに違いおへん。
苦しんだはる人のとこへ来ては弱い心を追い払ってくれはる方やと思てます。

芭蕉はこう吟じています。

  さまざまの事おもひ出す桜哉 (笈の小文)

吉野山吉野山

兄に追われた義経の事、後醍醐天皇の吉野朝の事、大塔宮(おおとうのみや)の事。
吉野はほんまにさまざまな事を思い出すところです。

吉川英治の平家物語の最後に、平家の盛衰をすべて見てきた麻鳥夫婦が吉野で花見をしながら今までの事をふりかえるのんです。

「絶対の座と見えた院の高位高官やら、一時の木曽殿やら、平家源氏の名だたる人ひとも
 みな有明の小糠の星のように消え果ててしまった。
 (中略)
 何が人間の幸福かといえば、つきつめたところまあこの辺が人間のたどりつける一番の幸福だろう。
 これなら人もゆるすし、神のとがめもあるわけはない。そしてだれにでも望めることだから
 それなのになんで人はみな階位や権力とかをあんなにまで血を流して争うのでしょう。もうやめてくれればよいに」

ごもっともごもっとも。

私たちも木のもとで中村軒のおいしいお花見だんごを食べながら、争いのない世をありがたいと思うのでございました。

めでたしめでたし


第68回 お菓子と器(柴田雅章さんの陶器)

中村軒の麦代餅
桂では5月の終わりから6月の初めに田植えをします。
このときの間食が麦代餅で、は田んぼまでお届けして半夏生のころ(7月1日か2日)にこの代金として
麦代をいただきに行ってました。麦代餅2個について約5合の麦をもろてたそうな。
麦と交換したんで麦代餅とゆう名が付いています。

田植えも機械となって麦代餅を田んぼまでお届けせんようになったんは昭和50年頃です。
これから田植えの時期だけ作ってた麦代餅を一年中店頭で販売することにしました。

店内で召し上がっていただく時に麦代餅をのせるお皿を長い間あれこれ買い求めていました。
真っ黒にしたときはちょっときつすぎる、刷目皿にしたらおとなしすぎてぼやんとする。
清水焼のうすいもんはにあわへん。

子供と生活文化協会(CLCA)発行の「あやもよう」という小冊子を毎月届けてもらっていましたが、この冊子の表紙に
毎月陶芸家の柴田雅章さんの器がのっていました。

「ええなあ・・・どこのお方やろ・・・。エライ先生やろか。頼んでも作ってもらえへんやろなあ・・・
 おそろしい値段したら店ではつかえへんなあ・・・」

写真から伝わってくる感じだけでもほっこりあったこうて、それでいて洗練されてて、うちの麦代餅に
ぴったりやないのん。

月日を重ねながら憧れておりました。
ある日大阪の阪急百貨店にて柴田雅章作陶展というのが目に入り、しかも本日まで。
めったと仕事をぬけ出したことがないのやけど、ダンナに頼んで「麦代餅」をもって電車に飛び乗りました。

「この餅をのせるお皿を作ってもらえませんか?」と正直にお願いしようと決めておりました。
デモ、ひげだらけの怖そうなおじさんやったらどないしよ・・・

会場でいろんな作品を見せて頂きましたがどれもシンプルでありながら炎の力を感じる物が並んでいて、
以前に読んだ河井寛次郎の「祈らない祈り仕事は祈り」という言葉を思い起こしました。

始めてお目にかかったら柴田さんは私の好きやった高校の英語の先生のような人。
スマートで(ひげはなし)優しそうな方で、前々から知っているような気ィがして
「実は『あやもよう』で毎月見せていただいておりました。店の名物のお餅をのせるお皿を柴田さんに
 作っていただくのが私の夢でした。値段があんまり高いと買えへんのですけど、どれくらいしますか?」

柴田さんは快くひきうけて下さったのです!
夢のような気持ちで家路へともどると
「ようそんなあつかましいことを大先生に直接言いにいったなー」と家中にあきれられましたけど・・・
私はもう嬉しくてこの世にはやっぱり神さんはいやはると頷くばかりです。

何ヵ月後出来上がったお皿はもう私の思ったとおりの出来ばえで、
麦代餅をのせると一層お餅が美味しそうに誇らしげに見えるのです。

薄っぺらい焼物は一枚めくるとけったいなねずみ色の土が出てきそうやのに、
柴田さんのは奥の奥までこの表面の色が続いてそうで、
「火」が喜んでお皿の中に入っていって固まったような気ィがします。

毎日お皿に麦代餅、あるいは他のお饅頭をのせてお客様にお出しするのですが、毎度安心感と喜びを感じるのです。
それ以来柴田家のご家族と親しくさせて頂いているのですが、いつも感心することは家中がお父さんのファンで応援者で、
何ともいえない自然なあたたかさに満ちていることです。
その暮らしの中から美しい器が生まれてくるのんやわ・・・

柴田雅章さんの工房柴田雅章さんの工房



私が行ったおりには、たいてい息子どのは登窯に使うまきを割ってはる。娘どのは美味しいお菓子を作ってはる
(紅茶を入れて下さって、このお菓子を柴田さんの器でいただくのも楽しみ)
奥方はお花やお野菜を作ってはって、帰りにはいつもお花お野菜をもたせて下さるのです。
そのお野菜が美味しいて、八百屋も併設しやはったらどないやろ、と思うたり。

NHKの朝ドラみたいなご家族で、やっぱりエエモン作る人は
暮らしが仕事、仕事が暮しと深う頷いて心満ち足りて帰ってまいります。

柴田雅章さんの工房柴田雅章さんの工房

娘どのが篠山市内に「ことり」という岩茶房を始められて人気を集めています。(2006年当時。現在は営業されていません)
お父さんの器を使っての茶房で、お父さんの仕事をどんなに誇らしく思ってられるかをひしひし感じるのです。

中国の武夷山に自生し唐代より皇帝のお茶として大切に扱われてきたお茶が岩茶で、いろんな種類があり
いい名前がついています。

 夜来香・・・これが夜来るような香りか、甘みの中に香りが溶けて
 鳳凰水仙・・・今年は蜂蜜のような味があります
 白牡丹・・・牡丹の花園にいるような情熱を感じます
 水金亀・・・さわやかな和服姿の男性のような味わい

お茶と一緒にこんな説明つきのカードがついて来ます。このカードを集めるのを楽しんでおられるお客様も多いようです。
柴田家のあたたかい雰囲気をここでもあじわえるお店で、私のいちおしです。

柴田雅章さんの工房

柴田さんが作陶されてから30年がたちます。
 「独立するに際し、窯は登り窯で陶土は丹波の土を用い釉は灰釉を中心にしていくことを仕事の指針としました
  松薪も土も灰もどれも自然から与えられたもので、自分の手では作ることができません。
  唯それらの素材によりかかるのではなく、その恵みを充分に生かして行く方向で器作りをして行きたいと思いました。
  『いのち』ある植物を燃やした灰
  土は生きている地球の一部
  それらを赤松の薪炎によって焼くことで生まれる焼物にもやはり同じ『いのち』を感じます」(柴田雅章作品集より)

柴田雅章さんの工房柴田雅章さんの工房柴田雅章さんの工房

私が柴田さんの器を毎日使って毎日感動するのんは「いのち」を感じるからでした。
様々なご縁をいただきありがたく、私も「暮らしが仕事仕事が暮し」でありたいと思いかえすのです。

めでたしめでたし。

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