第152回 嘉祥喰

   子のぶんを 母いただくや嘉祥喰   一茶

仁明天皇(810-850年)の承和14年に6月16日に16個の菓子や餅などを神さんにお供えして、
おさがりをいただくと疫病を払うと神さんのおつげがありました。

又、後嵯峨天皇が6月16日嘉定銭16文で食物を買い、みんなにふるまうと疫病が治まったと伝えられ、
これらの故事より嘉祥喰がはじまったと言われています。

旧暦の6月は暑さもたけなわで、病にかかりやすいさかい、栄養をとるという意味もあったんやろ。

明治以降この行事は廃れてしまうけんど、1979年全国和菓子協会の協議で嘉祥は和菓子の日として蘇りました。

中村軒では今年創業130年を迎えます。お客様に感謝の気持ちをこめて、すべて天然の素材で作った
五つの味のお饅頭「五福」を和菓子の日に合わせて販売の予定です。

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白は梅酒あん
赤(きびがら染)は味噌あん
黄(くちなし)エンドウあん
緑(抹茶)抹茶あん
茶(黒糖)黒砂糖あん

五福とは書経に出てくる人生五つの幸福のことで、
 1 寿命の長いこと
 2 財力の豊かなこと
 3 無病なこと
 4 徳を好むこと
 5 天命を以って終わること

5番目の天命を以って終わるというのんが一番解釈がむつかしい。

1582年6月2日は明智光秀が主君信長を倒した本能寺の変があった日です。
信長も光秀もこれが天命やったんやろか。

昔から信長暗殺事件は大きな謎とされている。
4番の「徳」を好む光秀が主君を殺すはずがないという説、いやいや信長にイジメられて決起したという説。

私が好きな作家の山本兼一さんの『信長死すべし』という著書の中では、
信長が大阪城を築いて城内に内裏を置く計画をたててるというのを正親町帝(おおきまちのみかど)が聞かはって

「このまま信長をほっといたら朝廷は無くなんのとちゃうか。 信長は天皇家の上に自分が立とうと思てんのんや。
 エライコトになる、信長死すべし」
と公家の近衛前久さんや勧修寺晴豊さんと画策し、信長を殺す役目を明智光秀に内々で命ずるということに
話はすすんでいきます。

そして光秀が信長を倒し、朝廷よりの勅使が来る。
光秀は朝廷から内々に依頼されて信長を討ったのに
「そんな事、帝は関係あらしまへん。
 勅(天子の命令)も、近衛殿から信長討伐の節刀と言われて受け取ったはずの刀も聞いてしまへん」
ととぼけられてしまう。

そして秀吉に敗れ逃げていくところを小栗栖で飯田一党におそわれ、ここで亡くなったことになっています。

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しかしある説には、実は生き延びて家康の片腕である「天海」になったという話もあります。
アリエヘンけど仲々おもしろでっしゃろ。

この天海はなんと106才まで生きて徳川政権を支えはったんやて。これが天命を以って終わるゆうことやろか。

なんでこんな説がでてきたとゆうと、

 ・天海の墓所である日光に明智平と名付けた場所があること
 ・家康をまつる日光東照宮は光秀の「光」という字が取り入れられている
 ・三代将軍の家光は天海が命名したと思われるが、家康の「家」と光秀の「光」が組合されている。
  家光の父である秀忠の字が入ってへんのはナンデヤ

主人殺しである光秀にこのような話が作り上げられていくのには光秀が悪者ではない、徳を好む人であると
世間の人々が認めていたからにちがいおへん。

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いろいろ考えてみると、むし暑いのんも忘れてしもた。
謎解きは一番の消夏法かもしれまへん。

病気の多い現代人です。せめて6月16日に五福を食べ、6月30日にはみな月を食べ厄祓いをいたしましょう。

中村軒の水無月

信長はんにも光秀はんにも食べさしてあげたかった中村軒の美味しいお饅頭です。

ほなこの月も、めでたしめでたし。


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